【題名不詳】有馬さとえ(三斗枝)ー東京国立近代美術館所蔵

「窓の向こうの再生――有馬さとえ《題名不詳》にみる戦後の呼吸」

東京国立近代美術館が所蔵する有馬さとえの油彩画《題名不詳》は、1946年から1951年頃の制作と推定される。その名の通り、作品には固有の題名が存在しない。だが、この「無題」は沈黙ではなく、むしろ戦後という時代の声なき記録として響いている。有馬がこの作品を描いたのは、戦災で渋谷の自宅を焼失し、荻窪の知人宅2階に身を寄せていた時期だった。避難生活の中、限られた窓から見える景色を、彼女は明るい色彩と伸びやかな筆致で捉えたのである。それは、失われた日常の断片でありながら、再び世界を見つめる眼差しの再生でもあった。

戦後の光を描く

有馬さとえは、戦前の帝展において女性として初めて特選を受賞した画家であり、女性美術家の先駆者として知られる。しかし、戦前の作品群は全体に暗く沈んだ色調を帯び、人物を内省的に描き出す傾向が強かった。深い褐色や深緑の陰影に包まれた画面には、当時の社会的制約と女性画家としての立場の複雑さが滲む。だが、《題名不詳》においてその表現は一変する。影の中にまで青や緑、紫が踊り、全体が高い彩度で満たされている。戦後の光が、画家の心の奥まで届いたかのような明るさである。

戦争が終わり、焼け跡の都市に新しい生活が芽生え始めた頃、画家が選んだのは、劇的な風景ではなく「窓の外の日常」だった。その何気ない眺めを、彼女は限りある絵具とキャンバスで描いた。筆致は大胆で、ところどころ地が透けるほどに軽やかだ。色面は呼吸し、絵の具の層の間に空気が流れ込む。戦前の重苦しさとは正反対の、解き放たれたリズムがある。これは単なる技法の変化ではなく、画家自身の精神の「回復の証」だったのだろう。

荻窪の二階から見た世界

有馬が身を寄せていた荻窪の家。その二階の窓から見えた景色が、この作品の構図を形づくっているとされる。屋根や庭木、遠い空。どこにでもあるような住宅街の一角である。しかし、焼け野原を見た直後の彼女にとって、この「ありふれた風景」こそが最も尊い対象だったに違いない。失われた日常を再び目の前に取り戻すこと、それ自体が彼女にとって「生の証明」であった。

画面はわずかに俯瞰的で、視線は遠景に向かってひらけていく。建物の陰影には青や紫が差し込まれ、葉は明るく、空は幾層にも重ねられた色の響きで満たされる。この高い視点と多層的な色彩構成が、閉ざされた避難生活の中にあっても、精神的な広がりを獲得しようとする意志を感じさせる。

窓の絵としての位置づけ

《題名不詳》は、物理的にも精神的にも「窓の絵」として読むことができる。窓は、内と外を隔てる膜であり、同時に画家の視線が世界へ向かう通路でもある。マティスやボナールといった西洋近代の画家たちは、窓辺をモティーフに、光と感情の実験を繰り返した。有馬の作品もその系譜に連なるが、そこには日本的な抑制と、戦後という時代固有の切実さが重なる。

彼女にとっての窓は、失われた自由と外界への希望をつなぐ象徴であった。ガラス越しに差し込む光は、単なる自然光ではない。それは戦火を生き延びた者にとっての「再生の光」であり、絵画を通して生きることを選んだ女性の意志を象徴するものだった。

題名のない普遍性

この作品が「題名不詳」であることは、単なる記録の欠落ではなく、むしろ意図された開放のようにも思える。もし特定の地名や情景が題名として与えられていたなら、作品は個人的な記憶の範疇に留まっただろう。しかし、題名を欠くことで、この絵はより普遍的な「再生の風景」として存在する。誰にとっても、この窓は開かれうる。

戦後の人々が経験したのは、破壊ののちの「日常の再獲得」だった。瓦礫の中から洗濯物を干し、食卓を整え、再び空を見上げる。そうした営みこそが、沈黙のうちに人々を支えた希望の形である。有馬の《題名不詳》は、その希望を色彩によって可視化した作品だ。明るい筆触の裏には、戦後の「静かな抵抗」と「生きることへの執念」が潜んでいる。

女性画家の新たな地平

戦後の日本美術は、抽象表現、社会的リアリズム、アンフォルメルなど多様な潮流が入り乱れたが、有馬の絵はそのどれにも属さない。具象でありながら、色彩の構造化や筆致の解放を通じて、戦後美術の新しい空気を呼吸している。女性画家としても、彼女の立ち位置は特異であった。戦後の女性美術家の多くが教育機関や日展などで活動の場を得る中、有馬は半世紀以上にわたり絵筆を取り続けた。

《題名不詳》はその歩みの転換点であり、女性画家が戦後社会の中でどのように「見ること」を取り戻したかを示す象徴的な作品である。彼女が描いたのは単なる風景ではなく、「もう一度世界を見る」という決意の表明であった。

終わりに――沈黙の中の声

題名のない絵は、沈黙しているようでいて、雄弁である。その沈黙は、戦後を生きた一人の女性画家の内なる声を包み込んでいる。《題名不詳》の窓の向こうにあるのは、復興の都市でも、誰かの庭でもなく、「光の記憶」そのものである。色彩は語り、筆致は呼吸し、絵画そのものが「再生」という言葉を越えた祈りとなっている。

この小さな油彩画は、時代を越えて私たちに問いかける――あなたの窓の向こうには、どんな光が広がっているのか、と。

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