【鴨】山口華楊ー東京国立近代美術館所蔵

静謐の抵抗――山口華楊《鴨》にみる呼吸の絵画

 1942年、戦時の緊迫した社会情勢のただなかで、山口華楊は一羽の《鴨》を描いた。絹本彩色による小品でありながら、その静けさは単なる自然描写を超え、時代の空気に対する微かな抵抗のように響く。画面には広がる水面、そしてそこに浮かぶ鴨。だがその静謐は、停滞でも沈黙でもない。羽毛の湿り、波紋の呼吸、光のゆらぎ――それらがわずかな筆致の中に凝縮され、生命の循環を見せている。

生命の沈黙とその運動

 華楊は対象を写すのではなく、対象が「生きている」ことを描いた。鴨の羽毛に宿る光沢、頸部の乾いた輝き、腹部の鈍い反射。それらは精密な観察の結果でありながら、過剰な描写には陥らない。むしろ省略と余白が生命感を際立たせる。沈黙の中に潜む動勢、そこに華楊の絵画の核心がある。

 この「省略による充実」は、彼の画風を貫く特徴である。筋肉や質感を過度に説明することなく、最小限の筆で生の気配を呼び込む。《鴨》でもまた、冷たい水面と柔らかな羽毛の境界で、観る者は時間の呼吸を感じ取る。

絹の光と水の音

 絹本彩色という媒材は、光を透かし、淡い層を重ねることで静かな深みを生む。本作の水面は薄墨のグラデーションで描かれ、わずかに波打つ陰影が空気の温度を伝える。羽毛には白群や褐色、緑青が織り込まれ、絹の下からほのかに光を返す。遠目には簡潔な構成だが、近づけば筆の乾湿、にじみ、かすれが繊細に制御されていることに気づく。

 構図は中央配置を避け、鴨を画面の片側に寄せている。そのわずかな偏りが、静止の中に流れを生む。余白は単なる空白ではなく、水の冷気と湿度を宿す空間として機能している。琳派的装飾性の継承を感じさせつつも、華楊はそこに現代的な呼吸を吹き込んだ。

色彩の倫理

 《鴨》の色は感情を表すための手段ではない。緑青と褐色、冷温の対比は、光と水の関係そのものを示す。近づいて見ると、一見単色に見える部分にも複層の濃淡が潜み、見る者の身体感覚を通じて環境の質が伝わる。華楊は「色は物の感触を伝えるもの」と語ったという。確かにこの作品の色彩は、濡れた羽毛の重さ、冬の空気の冷たさといった触覚を呼び覚ます。それは視覚ではなく、身体の記憶に訴える絵画である。

戦時下の静謐

 1942年という年は、芸術にも国家的使命が課された時代であった。多くの画家が歴史画や戦意高揚の主題へと向かうなか、華楊は小さな鴨に筆を向けた。その選択は沈黙による抵抗であり、英雄的主題から距離を置く倫理的姿勢でもあった。
 鴨の呼吸は、戦時の断絶に抗うように静かに循環している。華楊にとって自然を描くことは、生命の持続を信じることだった。そこに、彼の絵画の道徳的基盤がある。

伝統と近代の交差点

 華楊の筆は四条派の写生精神を受け継ぎつつ、琳派の平面性や装飾性を再構築する。《鴨》において余白は、気圧や湿度を孕む「生きた空間」となり、筆線は形をなぞる線ではなく時間の痕跡として働く。伝統を模倣するのではなく、再呼吸させる――そこに近代日本画の更新がある。

 堂本印象や前田青邨らと同時代にありながら、華楊の関心は「生きもの」と「呼吸」の表現にあった。小品《鴨》は、琳派的な構成美と西洋的自然観察が交錯する、きわめて稀な到達点といえる。

観者の呼吸と共鳴の場

 鴨は観者を見返さない。だが無関心でもない。適度な距離を保ちながら、同じ空気を共有している。画面は鴨の世界であると同時に、観者の呼吸を受け入れる空間でもある。支配ではなく共存。視線の倫理がここにはある。
 実際に展示空間で本作と対峙すると、こちらが作品を「見る」のではなく、むしろ鴨の世界に招き入れられる感覚を覚える。絵画は対象の再現ではなく、生命と観者が交わる場へと変わるのだ。

小さな呼吸の大きな世界

 《鴨》は、自然賛美でも象徴画でもない。静かに水面と呼応する一羽の鴨の呼吸が描かれている。伝統の余白と近代の観察が重なり合い、戦時という時代の重圧を越えて「生きる」という行為そのものを提示する。観者がその前に立ち、自らの呼吸を整えるとき、絵画は時を越えた共鳴の場となる。

 後年の大作《猛虎》や《群鹿》に比して、《鴨》は小品である。しかし、この小さな画面には生命の根源を見つめる画家の姿勢が濃縮されている。技巧を誇示せず、呼吸を描く――その静謐こそが、時代への抵抗であり、絵画が取りうる最も深い倫理的表現であった。

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