【秋陽】髙島野十郎ー福岡県立美術館

《沈黙する光──髙島野十郎《秋陽》にみる終焉と永遠》

 晩年の髙島野十郎が描いた《秋陽》(1967年頃)は、画家の生涯を貫く主題──「光」と「沈黙」──が最も凝縮された形で表れた作品である。傾いた秋の夕陽が画面外から差し込み、藪木立を黒く沈め、ススキの穂だけがかすかな光を受けて仄白く揺れる。その静謐な光景は、一見すると単なる秋の叙景のように見える。しかし、そこに宿るのは自然の写実を超えた精神的な緊張であり、光と影、生と死、存在と虚無が交錯する、髙島芸術の最終章にふさわしい世界である。

■ 斜照のドラマ──光と影の相互依存

 《秋陽》の画面には、太陽そのものは描かれていない。だが、光は確かに存在している。画面全体を支配する逆光の照射は、木々を黒い塊へと変え、草木の輪郭を曖昧に溶かし込む。細部を削ぎ落とすことで、光と影のせめぎ合いが一層際立つ。髙島は「見る」という行為の限界を意識的に提示しているのだ。
 逆光の中で唯一、ススキの穂だけが白く光を反射する。そのかすかな輝きは、沈みゆく太陽の名残であり、同時に「闇の中に宿る光」の象徴でもある。闇があるからこそ光は際立ち、光があるからこそ闇は深まる。そこには、相反するものを対立させず、共存させる野十郎の哲学が透けて見える。

■ 色彩の抑制と精神の深度

 《秋陽》を支えるのは、徹底した色彩の抑制である。藪木立の黒、夕空の赤みを帯びた黄、そしてススキの白──それだけで構成された画面は、簡素でありながら異様に豊かだ。黒は光を吸い込み、静けさを孕んだ深みとなり、空の赤みは季節の移ろいと時間の経過をにじませる。ススキの白は、消えゆく光の残響として、儚い生命のように画面を漂う。
 色彩を削ぎ落とすことで、光そのものの存在感が浮かび上がる。華やかさではなく、沈黙の中に潜む美。これは、派手な筆致や感情の昂ぶりとは正反対の、内省的な絵画の在り方である。髙島は、視覚の強度よりも精神の深度を求めた。

■ 不在の太陽──見ることの不可能性

 髙島野十郎にとって、太陽は単なる自然のモチーフではなかった。それは「絶対的な光」であり、「見ることの不可能な存在」であった。彼は生涯にわたり太陽を描き続け、その本質を捉えようとした。しかし太陽を真正面から描くことは、人間の視覚を超える試みでもある。
 《秋陽》では、太陽はすでに画面の外に沈みつつある。だが、その「不在」が、逆説的に太陽の絶対的な存在感を生む。姿を見せずとも、世界を覆い、形を奪い、影を生み出す力──それが太陽である。髙島は「描かないことによる表現」によって、光の本質を描き出したのだ。

■ 秋と夕陽──終焉の時間の象徴

 タイトルの「秋陽」は、季節と時間の二重の終わりを意味する。秋は一年の終末、夕陽は一日の終わりである。その二つが重なり合う瞬間、世界は静かに沈み、光は柔らかく消えていく。
 だが、その終焉は決して絶望ではない。むしろ、終わりの中にこそ美がある。冷たく澄んだ空気、残照に染まる大地──それらは、消滅の中に宿る浄化の光を思わせる。髙島は、時間の流れを描くことで、「終わることの美しさ」を提示した。そこには、無常を美とする東洋的な感性が息づいている。

■ 孤独の画家と宗教的沈黙

 《秋陽》が制作された1960年代後半、髙島野十郎は千葉・柏の農村で独居生活を送っていた。世俗的名声や画壇との関わりを捨て、自然と向き合う孤高の画家であった。その姿勢は、世間から離れた修道者のようでもある。
 《秋陽》に漂う厳粛な空気は、この宗教的精神に根ざしている。光と闇の対比は、善と悪、生と死、現世と彼岸といった象徴的二項を含みながら、どちらにも偏らない。髙島にとって世界は、相克ではなく調和の場であった。光は闇を生み、闇は光を引き立てる──その永遠の循環が、彼の信仰にも似た自然観を支えている。

■ 沈黙の筆致──語らない力

 髙島の筆は雄弁ではない。むしろ、言葉を拒むように静かである。しかし、その沈黙こそが画面に深い力を与えている。黒々とした藪木立は、何も語らずに光を受け止め、白いススキはわずかな筆触で光の揺らぎを伝える。表現の徹底的な抑制が、逆に見る者の感情を呼び覚ます。
 この「沈黙の力」は、蝋燭の炎を描いた代表作《蝋燭》シリーズにも通じる。小さな炎が暗闇を照らすように、《秋陽》の残照もまた、世界を包む闇の中で微かな光を放つ。そこには、孤独を超えた精神の静けさが宿る。

■ 終焉の美と永遠の光

 《秋陽》は、一日の終わりと人生の終わりが重なる象徴的な風景である。沈みゆく光は、やがて訪れる夜を告げるが、その消滅の瞬間にこそ永遠の輝きがある。髙島はその「一瞬の永遠」を見つめ、筆に託した。
 晩年、孤独と貧困の中で自然を凝視し続けた彼にとって、光はもはや希望でも絶望でもなく、ただ「存在そのもの」であった。《秋陽》の静かな輝きは、見る者に人生の黄昏を思わせながらも、不思議な安らぎを与える。それは、終わりを恐れず、沈黙の中に光を見出した画家の祈りのようである。

 こうして《秋陽》は、単なる風景画を超えて、髙島野十郎という存在の証となった。そこに描かれるのは、秋の夕景を通して見た「終わりの美」であり、そして「永遠に続く光」である。

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