【海辺の秋花】髙島野十郎ー個人蔵

海辺に咲く孤光――髙島野十郎《海辺の秋花》に見る沈黙と生命の詩学

 髙島野十郎が描いた《海辺の秋花》(1953年頃)は、一見して穏やかで抒情的な風景画のように思われる。だが、その静謐な佇まいの奥には、画家の生涯を貫く厳しい孤独と、生命そのものへの透徹した眼差しが潜んでいる。海と花――この二つの自然モチーフを通して、野十郎は「存在とは何か」という根源的な問いを描き出したのである。

 1950年代の野十郎は、すでに画壇から遠く離れ、世俗的な名声を顧みることなく、ひたすら自然の光と形の中に自己を見出そうとしていた時期にあたる。久留米から上京し、東京帝国大学で農学を修めた後に画業へと転じた彼は、いわば理知と感性の両極を併せ持った画家であった。だがその歩みは、流行や制度に背を向ける孤高のものであった。彼の代表作「蝋燭」や「満月」は、人工と自然、光と闇の極限的な対照を描き出し、観る者の心を打つ。しかし《海辺の秋花》において野十郎が見つめたのは、激しい対立ではなく、沈黙の中に宿る微かな生命の呼吸である。

 題名にある「海」と「花」は、互いに異質な象徴を内包している。海は永遠であり、果てのない生命の揺籃であると同時に、孤独と死をも暗示する深淵でもある。一方の花は、季節の移ろいとともに咲き、やがて散る刹那的な存在である。野十郎はこの相反する二つをひとつの画面に並置することで、持続と瞬間、永遠と滅びという時間の二重性を表現した。秋という季節設定は、成熟と衰退の境界を象徴し、まさに人間の生の在り方を重ね合わせる寓意として機能している。

 残された資料から具体的な構図を確定することは難しいが、野十郎が好んで描いた花の絵の特徴から想像すると、画面の前景には秋の草花が静かに咲き、背後には灰青色の海が広がっているのだろう。花は、菊や秋桜といった種類を特定する必要はない。むしろ重要なのは、花弁の揺らぎや葉の輪郭に宿る光の表情である。野十郎にとって花とは、観賞の対象でも、色彩の題材でもなかった。それは、自然の摂理の中に「在る」生命体そのものであり、人間の意識を超えた存在の象徴であった。

 彼の筆致は印象派的な感覚描写から距離を取り、沈潜した色調の中に微妙な明暗の移ろいを配置する。海は群青と灰のあいだで呼吸し、空は澄みながらも冷ややかである。光は全体を包み込むように漂い、対象の輪郭を曖昧に溶かしてゆく。その中で、花だけがわずかに暖色を帯び、ほのかな生命の温度を宿す。だが、その色も決して鮮烈ではない。むしろ、すべての存在がひとつの静けさに吸い込まれていくような、内的な調和が感じられる。

 《海辺の秋花》において、野十郎が描こうとしたのは「風景」そのものではない。彼が見ていたのは、花と海のあいだに流れる見えない気配――光と空気の振動である。野十郎の絵には、しばしば「空気そのものが描かれている」と評されるが、それは対象の周囲に漂う生命の波動を捉えようとする彼独自の感性の表れである。彼にとって自然とは、観察の対象ではなく、自己と世界とを媒介する呼吸の場であった。

 このような感覚は、野十郎が持っていた宗教的・哲学的背景とも深く結びつく。彼は晩年、仏教的思索に傾倒し、「物は皆光を放っている」と語ったと伝えられる。その言葉の通り、《海辺の秋花》にも、形あるものの奥からにじみ出る光が存在する。花も、海も、空気も、すべてが等しく「光」を内に抱えながら存在している。ここにあるのは、神秘や幻想ではなく、厳粛な実在感である。

 同時期の「菜の花」や「れんげ草」といった作品に通じる静けさの中で、《海辺の秋花》はより広大な空間性を獲得している。そこには、彼の代表作である「蝋燭」や「満月」に見られる人工的な光とは異なる、地上の自然光――つまり「生の光」が息づいている。野十郎は、蝋燭の炎の中に人間存在の儚さを見、満月の輝きに宇宙的な孤独を見出した。だが、花に宿る光は、滅びを前提としながらも確かな生命の持続を感じさせる。そこにこそ、《海辺の秋花》が持つ特異な精神性がある。

 この作品に映し出される花の姿は、風に吹かれながらも凛として立つ。その孤立した佇まいは、世俗の喧騒から離れ、ひとり自然と向き合い続けた野十郎自身の姿に重なる。彼にとって絵を描くことは、社会的承認を求める行為ではなく、内的必然による「生の確認」であった。海風に晒されながらも咲く花は、孤絶の中に在る芸術家の魂の象徴である。

 近代日本の花の絵画は、多くが装飾的・抒情的な文脈に留まる。しかし、野十郎の花はその枠を超え、存在論的な深みを備える。彼の花は、個としての生命の儚さを超えて、宇宙的秩序の中に自己を溶かす。ここには、近代の個人主義を越えた「無我の美学」が息づいている。だからこそ、《海辺の秋花》は、単なる風景画ではなく、人間存在の根源に迫る哲学的な絵画なのである。

 静けさの中に、無限の光がある。沈黙の中で、生命は微かに脈打つ。《海辺の秋花》は、その両義的な瞬間をとらえた、永遠の詩である。画面に漂う空気は、観る者の心に深い余韻を残し、「見ること」と「生きること」との境界を問い直す。髙島野十郎が追い求めたのは、自然を通じて顕れる生命の根源であり、この作品はその探求の静かな証言として今もなお輝き続けている。

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