【椿とリンゴ】髙島野十郎ー個人蔵

髙島野十郎《椿とリンゴ》
―静物に宿る光と沈黙の予兆―
髙島野十郎(1890–1975)は、日本近代洋画史において孤高の存在として知られる画家である。東京美術学校を卒業後も画壇の潮流に与せず、都会を離れて農村に身を置き、自然と向き合う静謐な生活の中で独自の絵画世界を築いた。彼の名を決定的にしたのは《蝋燭》《月》などの晩年作であるが、その厳粛な光の探究は突如生まれたものではない。若き日の静物画《椿とリンゴ》(1918年)は、その後の野十郎芸術の萌芽を明確に示す初期の重要作であり、光と沈黙へのまなざしがすでに端的に現れている。
大正期の日本洋画界は、白馬会や二科会を中心に印象派、ポスト印象派の受容が進み、絵画表現の革新が模索されていた時代であった。光と色彩の新しい扱い方、筆触の自由、個の感覚の表出――そのいずれもが、近代的な主体の確立を求める文化的潮流と呼応していた。そうした状況のなかで、野十郎は流行や技巧に頼ることなく、ただひたすらに対象を見据え、その存在の核心を捉えようとした。《椿とリンゴ》は、そうした彼の姿勢を象徴する作品である。
画面中央には、簡素な花器に活けられた赤い椿があり、その周囲には数個のリンゴが静かに置かれている。背景はほとんど無地に近く、装飾的な要素は一切排除されている。視線はただ花と果実に集中し、画家の凝視が一点に収斂していく。構図の端正さと沈黙の気配は、野十郎の精神のあり方そのものを映し出しているようだ。
とりわけ印象的なのは「赤」の扱いである。椿の花弁の赤とリンゴの果皮の赤――同系の色でありながら、その質感と光の反射が異なる。花の赤は内側から透き通るように柔らかく、生命の息吹を感じさせる。一方、リンゴの赤は厚みと重みを持ち、静かな堅牢さをたたえる。二つの赤は響き合いながら微妙な差異を保ち、画面に緊張感を生み出している。この「赤の対話」は、単なる色彩効果を超え、生命の充溢と静止の間に潜む時間の気配を示しているようにも見える。
野十郎にとって光は、単に明暗を描くための手段ではなかった。光は物体の存在を確証し、命を刻印するものであった。《椿とリンゴ》においても、椿の花弁に宿る柔らかな反射光や、リンゴ表面の艶やかな輝きが、まるで対象の「生」を呼吸させているかのようである。光は物質の輪郭を浮かび上がらせると同時に、その存在の本質を明るみに出す。のちに彼が描く《蝋燭》や《月》の作品群では、光そのものが信仰の対象へと昇華するが、その原型はすでにこの静物画に潜んでいる。
静物画というジャンルには、古来「ヴァニタス(虚無)」の寓意が潜む。花や果実はやがて枯れ、腐敗する。そのはかなさを通じて、生命と死の循環が静かに語られる。野十郎の《椿とリンゴ》にも、そうした象徴的な陰影が読み取れる。椿は日本文化の中で「落ち椿」として死の象徴と結びつく花であり、リンゴはキリスト教的文脈では「原罪」の果実である。彼が意識的にこの組み合わせを選んだとは限らないが、東西の象徴が同じ画面上で共存することは、結果として生と死、罪と救済といった普遍的主題を想起させる。
1918年という年は、第一次世界大戦が終結し、日本が国際的地位を高めつつあった時代である。都市の発展とともに、西洋的生活様式が日常へと浸透していった。リンゴという果実はその象徴であり、一方の椿は古来の日本的情緒を体現する花である。つまり《椿とリンゴ》は、近代と伝統、西洋と日本が交錯する時代の精神を、静物という形で無意識に刻印した作品でもある。
この作品を前にすると、観者は不思議な静けさに包まれる。花も果実も動かず、物語もない。だが、そこにある「存在」の確かさが、画面を越えて迫ってくる。時間が止まり、音が消えるような沈黙の瞬間――それは、野十郎が生涯をかけて追い求めた「光の静謐」そのものである。《椿とリンゴ》には、すでにその核心が芽生えていたのだ。
晩年、野十郎は蝋燭の炎を描き続けた。その光は孤独と信仰の象徴であり、彼自身の魂の灯でもあった。だが、蝋燭の炎が現れる以前、すでにこの静物画の中で、光は「存在そのもの」を証明する役割を果たしていた。若き日の《椿とリンゴ》は、単なる写実的習作ではなく、後年の精神的絵画へと至る最初の扉である。
この作品が持つ魅力は、厳しさと温もりの共存にある。構図は簡潔で禁欲的でありながら、そこには生活の気配や柔らかな人間味が漂う。晩年の宗教的静謐とは異なり、この時期の野十郎にはまだ日常の息づかいが残されている。それは、若き画家が現実の中で見出した「光の確かさ」だったのだろう。
《椿とリンゴ》を見つめるとき、私たちは野十郎が見た「静物」の意味を再考することになる。彼にとって静物とは、ただの対象ではない。生命のはかなさ、時代の変化、光の神秘――それらすべてを受け止める器であった。光が物体を照らし、物体が光を返す。その往還の中に、彼は世界の真実を見たのである。
髙島野十郎《椿とリンゴ》は、若き日の一枚でありながら、彼の芸術の核心をすでに宿している。光を通して存在の意味を問うこと、沈黙の中に生命の輝きを見出すこと。その探究はこの時点で始まり、やがて孤高の頂点へと結実していく。静物の中に息づく光の呼吸――それこそが、野十郎芸術の出発点であり、今もなお私たちの心を深く照らし出している。
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