【積る】髙島野十郎ー個人蔵

【積る】髙島野十郎ー個人蔵

沈黙の白、光の余韻——髙島野十郎《積る》をめぐる瞑想

雪が降り積もる。その静けさのなかに耳を澄ませると、世界の輪郭がふと遠のき、代わりに光そのものの呼吸が聞こえてくる。髙島野十郎の《積る》は、まさにそのような「白の呼吸」を描きとめた絵画である。戦後の混乱期にあって、野十郎は世俗の喧噪から身を引き、福岡の郷里で孤独な創作を続けた。その姿勢は、絵画史の流れから見ても特異であり、むしろ一人の求道者のような厳しさを湛えている。《積る》という作品は、その探求の果てに生まれた「沈黙の結晶」とも言うべきものである。

 この作品において、画面はほとんど白一色で覆われている。樹木や屋根といったモチーフがわずかに姿を見せるが、それらはかろうじて雪の層の下に埋もれ、まるで記憶の残滓のように微かに浮かび上がる。そこにあるのは、物質としての雪ではなく、「白」という現象そのものが持つ深い気配である。鑑賞者は絵を「見る」というよりも、「白に包まれる」体験をすることになる。視覚は次第に対象の把握を超え、静けさのうちに潜む無限の奥行へと引き込まれていく。

 西洋絵画における雪の表現がしばしば光学的であるのに対し、野十郎の白は形而上の問いに近い。それは「雪とは何か」「白とは何か」という根源的な省察である。彼の筆触は均質に見えて、その実、青み、黄味、灰味といった微細な差異が幾重にも重なっている。そこには塗り重ねる行為そのものが、沈黙の祈りのように感じられる。白が単なる「無」ではなく、むしろすべてを包み込む「有」として息づく。その静謐な層の中で、野十郎は光の存在を再発見しているのだ。

 《積る》というタイトルにおける動詞の選択は、きわめて象徴的である。「積もる」という言葉が示すのは、変化の過程、時間の堆積である。雪は一瞬にして降り積もるのではなく、無数の瞬間が重なり合い、やがて静かな厚みをもつ風景を生む。野十郎の絵もまた、その「時間の堆積」によって成り立っている。筆跡ひとつひとつが、彼の生涯の呼吸を刻みつけるように画面へと沈殿していく。したがって《積る》は、静止した風景画ではなく、「時間そのものの肖像」であると言ってよい。

 戦後という時代背景を考えると、この「白」はなおさら重い意味を帯びる。焦土と化した日本の風景の中で、白は喪失の象徴であり、同時に再生の兆しでもあった。雪が大地を覆い隠しながらも、やがて溶けて新たな生命を育むように、人々は破壊の底から再び立ち上がろうとしていた。野十郎にとって雪は「停止」と「再生」、死と再誕のあわいを示す存在だったのだろう。その沈黙の白には、戦争を生き延びた者の痛みと祈りが染み込んでいる。

 彼の代表作である《蝋燭》《満月》《太陽》などが、燃え上がる光、照りつける光、満ちる光を描いた「外へ向かう光」であったとすれば、《積る》における雪は「内へ向かう光」である。炎の激しさは消え、月の冷たい輝きも遠のき、残されたのは静かに沈潜する光の気配。それはもはや視覚的な明るさではなく、心の奥に差し込む微光である。野十郎が晩年にこのような光にたどり着いたのは、彼の精神が外界の喧騒を離れ、内なる静寂へと向かっていたからにほかならない。

この作品を前にすると、観る者は自然と呼吸を整え、声を失う。そこに響くのは「無音の音楽」である。絵の中の白は、見る者の内側に眠る記憶を呼び覚ます。幼いころの雪の日の静けさ、凍てつく朝の透明な空気、あるいは喪失のあとの心の白い余白——。それぞれの記憶が雪の層となって胸に降り積もる。《積る》は、そうした個人的体験を媒介にして、観る者を「自己の沈黙」と対峙させる装置でもある。

 「積もる」という行為には、時間と労働、そして忍耐が内包されている。雪が一片ずつ降り積もるように、野十郎の人生もまた、孤独な日々の積み重ねによって形づくられていった。彼は画壇に迎合することなく、名誉も求めず、ただ描き続けた。結果として生まれたこの白の世界は、彼の「生の堆積」が視覚化されたものと言える。そこには、描くという行為そのものが持つ救済の意味が静かに息づいている。

 《積る》を見つめていると、次第に「見る」という行為が「聴く」という感覚に変わっていく。風も音もない雪の夜、耳を澄ませば、白の奥底から微かな振動が伝わってくる。それはもしかすると、光の声、あるいは時間の囁きなのかもしれない。野十郎は、その声を聴くために筆を執り続けたのだろう。だからこそ彼の白は、単なる沈黙ではなく、「語る沈黙」なのだ。

 《積る》は、雪景色の絵として完結していない。むしろそれは、時間・光・存在という普遍的な主題をめぐる瞑想の場である。戦後という時代を超えて、現代の私たちにとってもなお、そこに響く白の沈黙は深い問いを投げかける——「いま、あなたの中に積もりゆくものは何か」と。野十郎の白は、単なる色ではなく、記憶と光と祈りの総体である。それは見る者の心の奥に、ゆっくりと、静かに降り積もっていく。

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