【デラウェアの通過】トマス・サリーーボストン美術館所蔵

「氷の河を越えて――トマス・サリー《デラウェアの通過》に見るアメリカ的英雄像の原型」
国民的記憶と美術的神話のあわいに
トマス・サリーの《デラウェアの通過》(1819年、ボストン美術館蔵)を前にすると、我々はまずその静謐な緊張感に包まれる。そこには、荒れ狂う川を渡る兵士たちの苦闘よりも、むしろその中心に立つジョージ・ワシントンの「姿勢」が支配的に描かれている。立ち上がる指導者の像、曙光を受けて光を帯びる横顔、そして沈黙のうちに前方を見据える眼差し――この絵において最も強く語るのは、行為ではなく「存在」そのものである。サリーがこの場面を選んだのは、単なる歴史の再現のためではない。彼にとって「デラウェア川渡河」は、アメリカという新しい国家が「信ずるべき物語」を形成するための象徴的劇場であった。
1819年、アメリカは建国から半世紀を経て、政治的にも文化的にも「国家としての自意識」を求めていた。モンロー政権の「善意の時代」と呼ばれる安定期のなかで、国民はもはや革命の熱狂を生きるのではなく、その記憶を共有する段階にあった。サリーはその記憶を形にする役割を自覚していた。彼がフィラデルフィアで多くの肖像画を手がけ、国家の指導者たちを「品格」とともに描き出したのは偶然ではない。《デラウェアの通過》は、その肖像的視線が集団的記憶に向けられた瞬間の結晶なのである。
画面中央のワシントンは、冬の灰色の光を受けて立つ。その周囲で兵士たちは寒風に耐え、氷の裂け目を縫うように船を進める。サリーはその一人ひとりに劇的な表情を与えず、むしろ「民の名もなき献身」として群像を描く。対照的に、ワシントンの姿だけが明確に照らし出される。そこにあるのは写実ではなく象徴の光だ。冬の朝を思わせるくすんだ色調のなかで、彼の顔と軍服の青が静かに浮かび上がる。まるでその光自体が「歴史の信仰」を可視化しているかのようだ。サリーにとって絵画とは、現実を記すものではなく、信念を刻印するものであった。
この光は同時に、イギリス的ロマン主義の遺産でもある。サリーはジョシュア・レイノルズやトマス・ローレンスの流麗な筆致を受け継ぎ、そこにアメリカ的道徳観を重ね合わせた。彼が描く英雄は豪奢な劇場の中心に立つのではなく、沈黙と克己の中で輝く。サリーのワシントン像は、後のエマヌエル・ロイツェが描いた壮大な《ワシントンのデラウェア渡河》(1851年)とは異なり、外向的な劇的効果を避け、むしろ内的な品格と信念の表情に焦点を当てる。ロイツェの作品がドイツ浪漫主義的な舞台装置の上に「神話化された英雄」を描いたとすれば、サリーのワシントンは「静かな神話」、すなわち国民の内面に宿る信仰の肖像であった。
興味深いのは、サリーが描いた「立つワシントン」の姿が、後のアメリカ美術における定型となっていく点である。ワシントンは以後、常に「立つ者」として描かれる。逆境の中にあっても姿勢を崩さず、未来を見据える者。この身体の垂直性が、共和国の理念そのものの象徴となった。ここにこそ、サリーの発明したアメリカ的英雄像の原型がある。
しかし、サリーの作品は単に英雄を讃えるだけではない。彼は兵士たちの労苦や自然の厳しさをも画面の奥に潜ませている。暗雲の下、うねる水面、氷の塊――それらは人間の意志を試す舞台であり、同時に自然という「神の領域」の表象でもある。ワシントンがその中に立つことは、単なる指導者の決意ではなく、人間が超越的秩序と向き合う姿でもあるのだ。サリーの筆は、歴史画を宗教画のような象徴空間へと昇華している。
この作品を「史実の再現」として見るなら、夜間の作戦を昼光のもとに描いた点など、誇張や改変は明白である。しかし、サリーの目的は真実の記録ではなく、「信仰の創出」であった。彼が描こうとしたのは、敗北寸前の国がなお希望を見出す瞬間であり、それは1819年という時代のアメリカにとって再び必要とされた物語だった。ナショナル・アイデンティティとは、単なる過去の記憶ではなく、現在の不安を癒やす未来の幻視でもある。サリーはその幻視を絵筆で示したのである。
今日、サリーの《デラウェアの通過》は、後世のロイツェ作品に比べて知られることは少ない。しかし、美術史的視点から見れば、この小品こそが「アメリカ的英雄像の定型化」を最初に成し遂げた作品として再評価されるべきである。サリーが提示したのは、個人の力ではなく、理想に支えられた「共同の勇気」の姿であった。そこに映し出されるのは、戦場を越えて、未来を信じる民のまなざしである。氷の川を渡るその行為は、国家が自己を信じて進む比喩そのものであり、サリーはその瞬間に「アメリカの精神」を見た。
《デラウェアの通過》は、英雄の肖像であると同時に、信仰の絵画である。冷たく沈んだ冬の光の中で、ワシントンの顔だけがほのかに輝く――その微光は、勝利の確証ではなく、希望の証である。サリーの筆致が静かであればあるほど、その信念の強さは一層鮮烈に感じられる。ワシントンの立つその姿勢のなかに、サリーは新生国家の「心の形」を見たのだろう。
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