【使者派遣】フランソワ・ブーシェーメトロポリタン美術館所蔵

【使者派遣】フランソワ・ブーシェーメトロポリタン美術館所蔵

鳩が運ぶ恋の序章
― フランソワ・ブーシェ《使者派遣》と18世紀ロココの夢想 ―

 フランソワ・ブーシェの《使者派遣》(1765年)を前にすると、まず心をとらえるのは、その絵の中に漂う「物語の始まり」の気配である。そこにはまだ何も起こってはいない。だが、やがて何かが始まり、世界が動き出す予感がある。若い牧童が手にする鳩、やわらかい風にたなびくリボン、光をまとった肌。すべてが次の瞬間に向けて呼吸しているように見える。ブーシェはここに、恋愛劇の第一幕――つまり“恋の予兆”そのものを描き出した。

 《使者派遣》は、1765年のサロンに出品された四点連作の冒頭を飾る一枚であった。そこから鳩が飛び立ち、次作で手紙を届け、第三作で娘がそれを読み、そして最終作で恋人たちが出会う。いわばこの作品は「恋のプロローグ」であり、鳩が飛び立つ瞬間に物語の時間が始まる。ブーシェはここで、絵画を一枚の劇的断片として扱いながら、連続する時間を観る者の想像力のうちに展開させた。観者は画面の外を想い、鳩の軌跡を心の中で追う。彼の絵は“見る”ものではなく、“読む”ものでもあった。

 画面を満たすのは、典型的なロココ的田園――けれどそれは決して泥の匂いを伴う農村ではない。磨かれた陶器のような肌をもつ登場人物、絹のように撓む草木、青く澄んだ空。そこにあるのは「自然」ではなく、「自然の理想像」である。18世紀パリの上流社会が夢見た、洗練された田園の幻影。彼らにとって牧歌とは、現実からの避難所であり、愛と快楽を合法的に夢想できる舞台であった。

 鳩というモチーフもまた、この夢想の装置の一つである。古代から愛の神アフロディーテ(ヴィーナス)に仕える象徴として知られる鳩は、ここで恋文を運ぶ“愛の使者”となる。だがブーシェの鳩は単なる写実ではない。羽根の一本一本にまで光の粒子を溶かし込み、柔らかく輝かせることで、画面に清らかな緊張を与えている。その清澄さは、人物の肉体的な官能と美しい対照をなし、まるで「純潔と欲望」の二重奏を奏でているようだ。
 この繊細な均衡こそ、ブーシェ芸術の真骨頂である。彼の筆致は甘美でありながら冷静、官能的でありながら構築的である。パステル調の青と緑が融け合う光の中で、人物たちはほとんど陶器のように滑らかに輝く。ブーシェが晩年に至ってもなお、ロココの色彩と筆運びを極めていたことを、《使者派遣》は雄弁に物語っている。

 しかし、この華やかさは同時に批判の対象でもあった。啓蒙思想家ディドロは、ブーシェを「享楽に溺れた画家」として糾弾したが、その筆は彼の魅惑を断ち切ることができなかった。ディドロ自身がこの連作を「小さな詩」と呼んだのは象徴的である。理性の時代の哲学者でさえ、この絵画に潜む詩情の力を否定できなかったのだ。ブーシェの田園は確かに虚構である。しかしその虚構の中に、人は現実には得られぬ「理想の自然」と「純粋な愛」の姿を見出した。

 

 18世紀のフランスは、現実の農村が貧困と労働に喘ぐ時代であった。その中で、都市のサロンに集う貴族やブルジョワたちは、牧歌的な幻想世界に安らぎを求めた。《使者派遣》に描かれる田園は、そうした社会の欲望が凝縮された“夢の舞台”である。そこでは、愛は常に成功し、自然は常に穏やかで、すべてが装飾的に整えられている。つまりそれは、彼らが「現実の欠如」を美に変換するための装置だったのだ。

 ブーシェの絵画は、その意味できわめて18世紀的である。虚構と現実、快楽と道徳、自然と人工――そのあいだで揺れながら、彼はロココという時代精神を描き出した。《使者派遣》における鳩の飛翔は、単なる恋文の運搬ではなく、まさにこの二項の世界をつなぐ“媒介”である。鳩は愛を運び、同時に観者の想像をも運ぶ。

 今日この作品を眺めるとき、我々はもはや18世紀のサロンの住人ではない。それでも、そこに宿る“始まりの気配”には、いまなお普遍的な魅力がある。現実では決して触れられない理想を、絵画という形式の中でそっと夢見る――その欲望の構造は、時代を越えて人間に共通するものだ。

 《使者派遣》は、恋が生まれる瞬間の絵であると同時に、夢が始まる瞬間の絵でもある。鳩が羽ばたくとき、絵の中の空気は静かに震え、見る者の心もまた微かに動く。その小さな動きのなかに、ブーシェが見た18世紀ロココの真髄――「甘美な虚構としての幸福」――が息づいている。

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