【レベッカの略奪】ウジェーヌ・ドラクロワーメトロポリタン美術館所蔵
- 2025/10/19
- 2◆西洋美術史
- ウジェーヌ・ドラクロワ, メトロポリタン美術館
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燃える城と沈黙のレベッカ
― ドラクロワにおける「崇高さ」と浪漫主義の両義性 ―
炎が夜空を裂き、城砦の瓦礫のなかから、白い衣をまとった女が運び出される。彼女の名はレベッカ。抱え上げるのは、異国風の武装を施した二人の戦士。けれど、これは英雄譚の一幕ではない。燃え盛る炎のなか、彼女は助け出されているのではなく、連れ去られているのだ。救出と略奪。その間に横たわる決定的な差異は、この絵画に刻まれた深い緊張を生み出している。
ウジェーヌ・ドラクロワ《レベッカの略奪》(1846年)は、見る者を物語の最中へと投げ込む。激しい筆致と錯綜する身体、劇的な色彩と陰影。そこに描かれているのは、まさに「瞬間の劇場」である。そして同時に、それは19世紀フランス浪漫主義の到達点、あるいはその矛盾の凝縮でもある。
物語の出典は、ウォルター・スコットの歴史小説『アイヴァンホー』。中世イングランドを舞台に、サクソン人とノルマン人、キリスト教徒とユダヤ人の葛藤が交錯する中、レベッカはユダヤ人の女性として「異端」と「純粋」を同時に体現する存在として描かれる。ドラクロワがこの主題に惹かれたのは偶然ではない。異邦人、被抑圧者、そして殉教者――それらは、浪漫主義が好んで扱ったモチーフであり、同時に画家自身の内的風景とも深く重なる。
画面の前景には、三人の登場人物がもつれ合うように配置されている。戦士たちの筋肉は力強く盛り上がり、衣服は翻り、重なり合う肢体はほとんどひとつの彫像のように絡み合う。彼らがどの方向へ進もうとしているのか、観る者は判然としない。まるで絵そのものが混乱しているかのようだ。しかし、その混沌こそが、この瞬間に命を吹き込んでいる。
レベッカの姿勢は、まるでこの喧騒とは別の時間に属しているかのように静謐だ。顔をやや上に向け、何かを見つめているのか、それともただ祈っているのか。彼女の白い衣装は、背景の炎とあまりにも対照的であり、その無垢さは一層際立って見える。この白は、単なる色彩ではない。それは、暴力のただなかにある精神的な強さ、静けさの象徴であり、観者に「この絵の中心は何か」と問いかけてくる。
背景に描かれるフロント・ド・ブーフ城は、文字通り火に包まれている。燃え上がる赤、立ち昇る黒煙。ドラクロワの色彩は、ここでも激情に溢れている。彼の筆は、輪郭を曖昧にしつつも、すべての物体に動勢と感情を与える。描かれているのは破壊の瞬間であり、同時に欲望の頂点でもある。この火は、物語上の災厄であると同時に、登場人物たちの内的欲望――そして芸術家自身の衝動――の比喩でもある。
注目すべきは、画面左下にひっそりと置かれた静物群だ。兜、布片、落ちた剣。これらは混乱の中の「静止」を象徴し、戦いの虚しさを暗示する。そして奇妙なことに、レベッカ自身もまた「もうひとつの静物」として機能している。彼女の沈黙、彼女の静けさは、この絵のなかでもっとも強く、もっとも確固たる意志の表現である。暴力に抗うのではなく、飲み込まれず、ただそこに存在すること。それは、殉教者の強さであり、浪漫主義が理想とした「崇高さ」の一形態である。
ドラクロワは、1832年のアルジェリア旅行をきっかけに、オリエンタリズム的主題を強く自らの画風に取り入れた。だが、この作品における「異国の戦士たち」は、単なる異国趣味にとどまらない。彼らは、異質性と暴力性を帯びた「代理人」として、フランス社会における異文化への視線をも象徴している。19世紀フランスの植民地的想像力と宗教的緊張、その無意識の葛藤が、画面の端々から滲み出ている。
このように、《レベッカの略奪》は、単なる物語画を超えた作品である。それは、「力による支配」と「精神による抵抗」という、二つの対立原理をひとつの画面に閉じ込めることによって成立している。この絵において勝者は誰か? 戦士か、レベッカか? その問いに対する答えは容易には出ない。しかし、炎があがり、力がうねる只中に、あえて目を閉じるような彼女の姿勢にこそ、見る者は「勝利とは何か」を思い知らされるのである。
ドラクロワは、「絵画において情念を描く」ことを生涯の課題とした。そしてこの一枚の中で、彼は暴力と欲望、沈黙と崇高さ、歴史と物語を鮮やかに融合させている。《レベッカの略奪》は、浪漫主義の壮麗な集大成であると同時に、それが抱える倫理的、文化的矛盾をも突きつけてくる。火は今なお燃え続け、レベッカは今なお、あの白い衣のまま沈黙を保っている。そして我々は、その沈黙に、今もなお言葉を失うのだ。
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