
窓辺のまなざし――髙島野十郎《ノートルダムとモンターニュ通II》に見る静謐と超越
1930年代初頭、戦間期パリ。芸術家たちが集い、サロンとカフェが文化の坩堝となっていたこの都市において、一人の日本人画家はまるでそこに背を向けるかのように、アパルトマンの最上階から静かに窓外を見つめていた。髙島野十郎。《ノートルダムとモンターニュ通II》は、彼がパリ滞在中に描いた、稀有な都市風景画である。
本作は、単なる「パリの絵」ではない。モンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りから見えるノートルダム大聖堂を中心に、通りを行き交う人々、馬車、路面電車、石造の建築群、そして窓辺に置かれた鉢植えのゼラニウムまでもが、ひとつの統一された詩情のなかで、静かに共存している。構図は明快でありながら多層的。まるでレンズ越しに都市の断面を見せるかのような視覚的構成は、観る者に「見る」という行為そのものの意味を問いかける。
本作の特異性は、都市を「窓越し」に描いている点にある。窓という視覚的・心理的な境界線が画面に導入されることで、都市は単なる対象物ではなく、内と外の対比、私と世界との関係性を映し出す装置として立ち現れる。観る者は画家の背後に立ち、彼と同じ位置からパリを見つめる。この視線の共有は、都市の風景を一枚の絵画にとどまらせることなく、私的な体験へと昇華する装置となる。
ゼラニウムの赤が特に印象的だ。くすんだ灰色と青の画面のなかにあって、その小さな赤は異様なほどに鮮やかである。それは単なる色彩上のアクセントではない。都市の喧騒の中にあって、静かに置かれたこの赤い花は、画家の内的な熱を象徴するようだ。野十郎は「孤独な観察者」でありながら、この一点において強い情念を語っている。それは芸術への執着であり、都市における生への感応であり、あるいは遠く祖国を離れた異邦人としての孤独の焦点でもあるだろう。
また、画面の最奥にはノートルダム大聖堂が控えている。ゴシック建築の荘厳なシルエットは、世俗の喧騒とは一線を画し、精神的な永続性を象徴している。街のざわめきのなかで、聖性を帯びた静寂が確かに存在しているという構図。それは「日常」と「超越」の対比であり、「個」と「文明」、「観察」と「信仰」の対置でもある。
髙島野十郎は、当時の多くの日本人画家のように、パリの芸術界に迎合しようとはしなかった。モンパルナスのカフェにも通わず、華やかな社交界とも距離を置いた。彼が描いたのは、あくまで「そこにある風景」であり、しかも窓から見える限られた範囲の都市だった。しかし、その「限定された視野」は、逆に都市の本質を深く抉り出している。日常に宿る静謐、そこに漂う時間の厚み、そして都市に住まう者たちの無名の営み。それらを描くことによって、野十郎は都市の外形ではなく、都市の精神を描こうとしたのではないか。
色彩と筆致の分析に目を向ければ、全体に落ち着いた色調が支配している。石造建築のグレー、空の淡いブルー、通りに立つ人物たちの小さな影。いずれも克明でありながら、過度な写実を避けた冷静な観察に貫かれている。だがこの「冷静さ」が、逆に詩情を生み出すのが野十郎の筆の妙である。何気ない都市の風景が、どこか懐かしく、あるいは切ない感情を喚起させる。それはおそらく、画家がこの風景を「孤独の中で」見つめていたからだ。
本作は、のちの《蝋燭》や《月》シリーズとは異なり、内面世界に完全に沈潜する以前の、いわば「外界との対話」の記録である。だが、日常のなかに潜む精神性を凝視するまなざしは、すでにこの作品において確立されている。窓辺のゼラニウムとノートルダムの遠望という対置は、まさにその象徴である。生活と祈り、現実と象徴、時間と永遠――これらを一つの画面に収める構成力は、静かでありながら圧倒的だ。
都市は、そこに住まう者の内面を映す鏡である。喧騒のなかで人は孤独を深め、静けさのなかで世界とつながる。《ノートルダムとモンターニュ通II》は、野十郎にとって、異国の都市との対話であり、同時に自己の深層を見つめる内省の場でもあった。私たちがこの作品を前にするとき、そこにあるのは過去のパリの風景ではなく、「ひとりの眼差しが都市をどう見るか」という、普遍的な問いなのである。
都市を描いて都市を超え、風景を描いて精神を浮かび上がらせる。そんな逆説的な表現が可能であることを、髙島野十郎はこの一枚で静かに証明してみせている。彼のまなざしは、私たちにとってもまた、世界を見るための「窓」となるだろう。
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