【着物】アルフレッド・スティーブンスーメトロポリタン美術館所蔵

【着物】アルフレッド・スティーブンスーメトロポリタン美術館所蔵

アルフレッド・スティーブンスの作品《着物》

―ジャポニスムとオランダ的伝統が織りなす視覚詩―

 1872年に制作されたアルフレッド・スティーブンスの《着物》は、19世紀ヨーロッパにおけるジャポニスム受容の豊かな結晶であり、同時にオランダ17世紀風俗画の伝統を改めて甦らせた作品として位置づけられる。キャンバスには、青地に花文様を散らした和装――すなわち着物をまとい、手に団扇を持つ赤毛の女性が、鏡の前に立つ姿が描かれている。女性は画面に正面を向くのではなく、やや横を向きながら、鏡に映る自らの姿へと視線を注ぐ。その構図は一見して親密かつ内省的であり、画面を観る者に voyeuristic(覗き見的)な印象を与える。

 スティーブンスはベルギー出身ながら、活動の拠点をパリに置いた画家である。彼はフランス第二帝政期の女性肖像画家として名声を博したが、その基盤にはオランダ17世紀絵画への深い共感があった。レンブラントやフェルメール、あるいはテル・ボルフといった画家たちが築き上げた「室内における女性像」の伝統は、彼にとって単なる過去の遺産ではなく、近代に蘇生すべき生きた様式であった。《着物》における「鏡を前にした女性」というモティーフは、まさにこのオランダ風俗画の遺産を想起させる。

 しかし、スティーブンスの手で描かれた女性像は、単なる歴史的再演には終わらない。ここには19世紀ヨーロッパが熱狂した「ジャポニスム」の要素が鮮やかに重ね合わされている。幕末から明治初期にかけて日本から流入した漆器、陶磁器、浮世絵、衣服などの品々は、従来の西洋的美意識に新たな刺激を与えた。なかでも「着物」は、東洋的な異国趣味の象徴であると同時に、流行のモードとして女性たちを彩った。《着物》に描かれた青地の和装は、まさにそのような文化的嗜好を反映する。団扇を持つ仕草もまた、異国情緒を増幅させ、モデルの存在を単なる「室内の淑女」から「東洋の夢幻世界を纏う女性」へと変貌させている。

 この作品にはまた、女性像を媒介とした二重の「視線の交錯」が仕掛けられている。第一に、女性自身が鏡を通じて自らを見つめるという内的な視線。第二に、観者がその女性を横から眺めるという外的な視線。鏡は対象の姿を複製し、同時に自己省察を象徴する道具である。スティーブンスが描く女性は、自分の姿を見ているのか、それとも自己の内奥に潜む感情を探ろうとしているのか。その曖昧さが画面に詩的な緊張を与えている。観者は女性を直接見つめると同時に、彼女が映し出す「もう一人の自分」を覗き込むことになる。この二重性は、オランダ風俗画の伝統と、19世紀末的な心理主義の萌芽とを結びつけるものといえる。

 さらに注目すべきは、色彩と質感の扱いである。青地に花模様を散らした着物は、絹織物特有の柔らかい光沢を纏い、布の重量感と繊細さが巧みに表現されている。スティーブンスは、かつてドレスやサテン、レースといった西洋的衣装の描写に卓越した技量を示したが、ここでは日本の衣装にその技量を応用している。着物の装飾的な文様は、単なる写実を超え、画面に装飾性を与える。青という色彩は女性の赤毛と鮮烈な対比をなし、全体を引き締める役割を果たす。色彩の組み合わせは、西洋の肖像画の伝統に則りつつも、東洋趣味的な鮮やかさを纏い、新しい視覚的快楽を提供している。

 また、この作品がメトロポリタン美術館の初期パトロンであったキャサリン・ロリラード・ウルフによって委嘱されたことは重要である。彼女はアメリカにおける芸術支援者の先駆であり、《着物》はその審美的嗜好を体現した作品といえる。ウルフが求めたのは、単なる写実的な肖像ではなく、時代の先端を映し出す文化的シンボルであったのだろう。スティーブンスはその期待に応え、異国趣味と伝統の融合を通じて、19世紀後半の国際的な審美意識を具現化した。

 比較のために、同じ1872年に制作され、リエージュ美術館に所蔵されている別ヴァージョンにも触れる必要がある。両者はほぼ同一の構図を持ちながらも、色彩やディテールに微妙な差異があり、それぞれが独立した作品として成立している。スティーブンスが同一主題を複数回扱ったことは、彼自身がこのモティーフに特別な意義を見出していた証左であると考えられる。それは単なる東洋趣味にとどまらず、「女性と鏡」という普遍的主題を、ジャポニスムの衣装を介して再解釈する試みであった。

 《着物》の成立背景には、19世紀ヨーロッパ社会における女性のイメージの変容も見逃せない。当時のパリ社交界において、女性は単なる家庭の装飾的存在ではなく、文化的消費の担い手、そして社会的洗練の象徴であった。異国の衣装に身を包むことは、女性たちが自らの洗練と国際性を誇示する手段でもあった。したがって、《着物》は単に画家の東洋趣味を示すにとどまらず、近代女性像の新たな表象形態を提示した作品でもある。

 最後に、この作品を19世紀絵画史の中に位置づけるならば、スティーブンスは印象派の革新と並行して、伝統と異国趣味を融合させる別の道を切り開いた画家であったと言える。マネやドガが現代生活を瞬間的な視覚体験として描き出したのに対し、スティーブンスは現代女性を歴史的伝統と国際趣味の交差点に立たせ、その姿を洗練された心理的イメージとして描いた。《着物》は、まさにそうした彼の特質を最も鮮やかに示す作品のひとつである。

 アルフレッド・スティーブンスの《着物》は、19世紀ヨーロッパにおける文化的交錯を一枚の画布に凝縮している。オランダ的伝統に根ざす室内画の静謐さ、日本趣味の装飾性、そして近代女性の心理的表象が、互いに干渉し合いながら新しい視覚の地平を切り拓いているのだ。その意味で、この作品は単なる美しい肖像にとどまらず、19世紀美術の多層的な文脈を映し出す「文化的鏡像」として、今日もなお私たちを魅了し続けている。

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