
北脇昇の《空港》
見立てと寓意が交錯する戦時下のシュルレアリスム
1937年(昭和12年)、北脇昇が制作した《空港》は、油彩・キャンバスによる中型の作品であり、東京国立近代美術館に所蔵されている。本作は、北脇がシュルレアリスムの技法や思考を積極的に吸収していた時期にあたるが、そのシュルレアリスムはパリのそれと全く同質ではなく、日本的な「見立て」の美意識と深く結びついた独自の展開を遂げている。楓の種子を飛行機に見立て、木片を雲や月と見なすという発想は、異質な事物を連結して別の像を立ち上げるシュルレアリスムの「転移」的手法でありながら、同時に古来の和歌や俳諧にも通じる視覚的連想の妙を内包している。
北脇昇(1901–1944)は、1930年代日本の前衛美術において、詩人や評論家としても活動しながら絵画制作を続けた数少ない存在である。彼はシュルレアリスムを単なる輸入様式としてではなく、日本文化の中に移植し、自らの造形言語に組み替えた。その際の鍵となったのが「見立て」であった。
欧州のシュルレアリスムは、しばしば自動記述や夢のイメージ、偶然の出会いを重視したが、北脇の場合、対象物は必ずしも無意識の衝動からではなく、日常や身近な自然物から選び取られた。植物図譜や身の回りの木片、種子といった素材は、彼の眼差しにおいて、別世界の装置や風景に変貌する。その変換は突飛であると同時に、抑制された品格を備えており、西欧的なシュルレアリスムの過剰な幻覚性とは異なる落ち着きを漂わせる。
本作の最大の発想は、楓の種子を飛行機に見立てた点である。楓の翼果は、二枚の羽根を広げて回転しながら落下する。その形は確かに双発機や複葉機を思わせ、1930年代という航空技術の進展著しい時代において、飛行機の象徴性は強かった。この見立ては、単なる形態的類似ではなく、空を移動する動力体と、自然界における種子の飛翔という二つの運動原理を重ね合わせるものであり、そこには生命と機械、自然と人工という対立項を架橋する詩的な力がある。
楓の種子が画面の上空に浮遊する様は、まるで無音の編隊飛行のようでありながら、その飛行は戦時下の軍事的行動を連想させもする。1937年は日中戦争が勃発した年であり、空はもはや単なる自由の象徴ではなく、軍用機の侵入や爆撃の恐怖とも結びつく空間となっていた。種子=飛行機の見立ては、その詩的な軽やかさの背後に、現実の重苦しい影を引きずっている。
画面上部に漂う木片は、節穴を一つ備えている。その形は朽ちた枝の断片に過ぎないが、北脇はこれを雲に見立て、節穴をそこから覗く月に変容させる。この二重イメージは、静謐な夜空の情景と、廃材の物質感とを同時に観者の意識に喚起する。
このような「雲=木片」「月=節穴」という変換は、物の表面に新たな意味を滑り込ませるシュルレアリスム的技法であると同時に、日本美術の伝統的視覚遊戯にも通じる。たとえば俳諧における「見立て」は、自然物や日常品に別の物事を仮託し、その二重性から余情を生み出す。《空港》は、その視覚的俳諧を20世紀的都市感覚の中に再配置していると言える。
《空港》が描かれた1937年、日中戦争は盧溝橋事件を契機に全面化し、日本国内は軍需体制へと急速に傾斜していった。新聞やラジオには戦況が連日報じられ、空に飛ぶものは詩や冒険の象徴から、戦争の道具へとイメージを変えていく時期である。
この作品には、明確な戦争描写はない。しかし、背景に漂う鈍い色調や、静止したままのような楓の飛行機群には、見えざる緊張感が張りつめている。空港という題名は、本来は人と物を結び、旅立ちを支える場所を指すが、1937年の「空港」は同時に、軍用機の離着陸する軍事拠点のイメージとも重なったはずだ。北脇が意図的にその二重性を利用したのか、あるいは観者の側が時代の文脈からそれを読み込むのか——いずれにせよ、《空港》は一見穏やかな寓話の中に、時代の重圧を潜ませている。
《空港》の画面は、水平的な構成を基調としている。上空を漂う木片と楓の種子群は、空間の奥行きを示す透視法的要素を欠き、むしろ平面的に配されている。この平面性は、対象を現実の空間から切り離し、夢のような時間に閉じ込める役割を果たす。地表部分の描写は簡潔で、むしろ抽象的な帯状の色面として提示されるため、観者は「場所」としての空港を確定できない。具体性の欠如こそが、この作品を現実と夢の境界に浮かせている。
色彩は抑制的で、鈍い青や灰褐色が画面を支配する。これは北脇が好んだやや乾いた色調であり、湿度を感じさせないため、対象の物質感や時間の停止感を強調する。部分的に挿入された明るい色彩——たとえば種子の淡い黄や木片の明るい肌色——は、背景に沈む鈍色との対比によって、かすかな光のように浮かび上がる。
北脇が見出すモチーフは、西洋のシュルレアリストが愛した工業製品や都会の断片とは異なり、自然界の素朴な形態である。楓の種子や木片といった、誰もが一度は手に取ったことのある素材は、日本の自然観や季節感と親和性が高い。その意味で、《空港》は西欧的シュルレアリスムと日本的自然感覚の交差点に位置している。
《空港》に人間の姿はない。飛行機に見立てられた種子も、木片も、それを操る主体を欠いている。この無人性は、夢の静謐さを生むと同時に、不安や孤独を増幅させる。観者は、離陸も着陸もないまま宙づりになった空間に取り残される感覚を味わうことになる。
人の不在はまた、戦時下の現実と奇妙に呼応する。戦争の報道は兵士や市民の姿を映し出すが、空からの攻撃や爆撃はしばしば「誰が攻めてくるのか見えない」恐怖を伴った。《空港》に漂う無人性は、その匿名的な脅威の感覚を、直接的描写なしに観者の内に呼び起こす。
北脇昇の《空港》は、表面的には自然物を使った見立ての遊びであり、静かな幻想絵画の趣を持つ。しかし、その背後には1937年という時代の緊張が深く染み込んでいる。楓の種子は飛行機として空を舞い、木片は雲と月に化ける——その軽やかな変容の中に、時代の重さが沈殿している。
シュルレアリスムの手法を日本的な自然感覚と融合させた北脇は、この作品で夢と現実の境界を曖昧にしながら、観者に見えざるものへの感受性を促している。《空港》は、戦時下における視覚的詩作であり、同時に静かなる警鐘でもあるのだ。
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