【タチアオイの白と緑ーベダーナル山の見える】ジョージア・オキーフー東京国立近代美術館所蔵
- 2025/8/15
- 日本美術
- ジョージア・オキーフ, 東京国立近代美術館
- コメントを書く

作品「タチアオイの白と緑ーベダーナル山の見える」
ジョージア・オキーフにおける自然、抽象、そして神話の地層
アメリカ近代美術を代表する女性画家ジョージア・オキーフ(Georgia O’Keeffe, 1887–1986)は、風景や花、骨といった自然のモチーフを、明快で構成的なフォルムと色彩によって象徴的に描き出したことで知られている。《タチアオイの白と緑ーベダーナル山の見える》(1937年)は、彼女の創作の中核にある自然への深い感受と、それを通して構築される精神的な風景の表現が集約された作品である。本作においてオキーフは、白いタチアオイ(ホリホック)の静謐な姿と、はるか遠くに屹立するベダーナル山の堂々たるシルエットを組み合わせ、自然と自己の内的世界との交感の一場面を象徴的に定着させている。
タチアオイという植物の選択 ― 内奥への入口としての花
オキーフの花の絵画はしばしば拡大され、クローズアップの視点で描かれることが多い。1920年代から30年代にかけて、彼女は花びらの起伏や奥行きを、まるで風景のように緻密に、そして感覚的に描いた。その花は「性の象徴」であると多くの批評家によって解釈されてきたが、オキーフ自身はそうした読み取りに距離を取り、むしろ彼女にとって花とは「見るという行為の練習」であり、「忘れられた感覚を蘇らせる装置」であったと言える。
タチアオイは、高さ2メートルにも達する茎に、縦に連なって大輪の花を咲かせる植物である。オキーフが本作で描いた白いタチアオイは、生命の成熟と静けさ、あるいは魂の純化を象徴するかのように、画面の手前に垂直に構えられている。白と緑のコントラストは、自然の力強さと内省的な平穏の両方を内包しており、それはオキーフの精神的風景そのものでもある。
ベダーナル山 ― 神話化された風景の中の精神的地軸
画面奥に配されたベダーナル山(Pedernal)は、ニュー・メキシコ州アビキュー近郊にある高さ3006メートルの卓状台地であり、オキーフにとっての聖なる山であった。彼女はこの山を繰り返し描き続け、1940年には山の見える土地を購入してアトリエを構え、晩年までそこに住み続けた。オキーフは晩年にこう語っている。「神が私に死を許すなら、私はこの山に撒かれるだろう」。そして実際に、彼女の遺灰はベダーナル山の頂に撒かれている。
オキーフにとって、この山は単なる風景ではなかった。それは、彼女の創造の原点であり、人生と死、自然と霊性とを接続する象徴的な存在であった。《タチアオイの白と緑》において、この山は地平線上にささやかに、だが確固たる存在感をもって現れる。画面の大部分を占める花に対し、山は遠景として控えめに置かれているが、そこには絵画的中心軸としての重みがある。
この遠近法的配置――巨大な花と遠くの山との対比――は、時間と空間、肉体と精神、生と死といった二項対立を内包する構造を形成する。花は生の儚さと美しさを示し、山は永続性と霊的な重みを象徴している。両者の対置は、オキーフ自身の存在の両極を表しているようにも感じられる。
色彩と構成の詩学 ― 光の中でかたちが融ける
オキーフの絵画において、色彩は単なる視覚効果ではなく、存在の「質」を語る言語である。《タチアオイの白と緑》では、白と緑、そして空と山のブルーグレーの色調が、静けさのなかにも鮮明な対比をなしている。白い花びらは、まるで光に透ける布のように描かれており、単なる白ではなく、微細な陰影とニュアンスが与えられている。その繊細さは、観る者の身体感覚に訴え、まるで触れることができそうなほどにリアルでありながら、同時に夢のように抽象的でもある。
構成に目を移すと、本作では垂直と水平という基本的な秩序が強調されている。タチアオイの茎は画面に垂直に立ち、ベダーナル山のシルエットは水平線を形作る。この垂直と水平の交差点にこそ、オキーフの美学の核心がある。それは「地」と「天」、「現実」と「超越」が交わる地点であり、そこに彼女は自らの精神的拠点を築いたのだ。
抽象と具象のあわい ― 女性作家の視点から
ジョージア・オキーフの作品は、しばしば「抽象」と「具象」の境界にあると評される。彼女は、カンディンスキーやマレーヴィチのように純粋な抽象へと踏み込むことはなかったが、同時に、従来的な写実主義にもとどまらなかった。彼女の関心は、目に見える現実の向こうにある「感覚の構造」や「かたちのエネルギー」を捉えることにあった。
この視点は、男性的な遠近法や構図が支配的だった当時のアメリカ美術界において、異質なものであった。オキーフの絵画には、自然や対象物との「関係性」が強く表れており、それはしばしば女性的な感性として理解されてきた。だが、彼女の作品は単なる「女性の美術」ではない。そこには自己の存在の根源を問う真摯な探求があり、見ることと描くことによって、世界を新たに再構築しようとする意志がある。
《タチアオイの白と緑ーベダーナル山の見える》においても、花のフォルムや構図の明晰さは、単なる植物画にはとどまらず、抽象的な形の探求へと接続されている。とりわけ、花びらの湾曲や重なり、茎の伸び上がる直線性は、抽象画のリズム感を持っており、見る者に深い集中を強いる。
ニュー・メキシコという土地の精神性
1930年代後半、オキーフはたびたびニュー・メキシコを訪れるようになり、その風土に強く惹かれていった。砂漠、乾いた空気、広大な空、断崖と岩、そして先住民文化の名残――それらすべてが彼女の美術に新たな軸を与えた。特に先住民の宗教儀式や工芸に見られる抽象的なモチーフ、繰り返しの構成、対称性などは、彼女の作品に微妙な影響を及ぼしている。
《タチアオイの白と緑》の背景に広がる空間には、そうした精神性が漂っている。ベダーナル山は、その厳しい地形の中に神話的な静けさをたたえ、まるで精霊の住まう場所のように存在している。オキーフはこの風景を、自らの内的な信仰の対象として描いているのだ。
見ることの儀式としての絵画
ジョージア・オキーフは、自らの絵画を「見ることの儀式」として捉えていた。彼女にとって、自然は観察の対象であると同時に、自己の内面を映し出す鏡であった。《タチアオイの白と緑ーベダーナル山の見える》は、その両義性の中で生まれた作品であり、自然と精神、現実と象徴、可視と不可視とを交差させる場である。
タチアオイの静謐な花と、遠くにそびえるベダーナル山。その間に広がる空間の透明さ、色彩の調和、構成の明晰さ。そこには、見ることを通して世界と再接続するための視覚の詩がある。そしてこの詩は、現代のわれわれにも、自然との関係を問い直す静かな契機を与えてくれるのである。
コメント
トラックバックは利用できません。
コメント (0)
この記事へのコメントはありません。