
展覧会【ノワール×セザンヌ ―モダンを拓いた2人の巨匠】
オランジュリー美術館 オルセー美術館 コレクションより
会場:三菱一号館美術館
会期:2025年5月29日(木)~9月7日(日)
愛らしさと絵画の手触り
ピエール=オーギュスト・ルノワールの《遊ぶクロード・ルノワール》をめぐって
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの絵画は急速な変容を遂げていた。印象派の革新は既に広く認められ、次なる動きが模索されていた時代である。そのような過渡期にあって、ピエール=オーギュスト・ルノワールの筆は、決して近代の奔流に流されることなく、しかしまた、ただ後ろ向きに伝統に縋るのでもなく、むしろ彼独自の美的信念に基づく探求を続けていた。その信念とは、絵画における幸福の表現であり、人間の肉体や肌のぬくもり、家族という存在の静かな尊さである。
そのようなルノワール芸術の円熟した成果のひとつが、《遊ぶクロード・ルノワール》(1905年頃制作)である。本作は、画家の末息子クロード(愛称「ココ」)を主題にした作品であり、ルノワールの家庭的なまなざしと、20世紀初頭における彼の絵画的関心が見事に結晶している。2025年の三菱一号館美術館展「ルノワール×セザンヌ―モダンを拓いた2人の巨匠」において本作が出展されることは、単なる家庭画としてではなく、ルノワール芸術の本質にふれる絶好の機会を提供するものといえよう。
《遊ぶクロード・ルノワール》に描かれる幼い男児は、柔らかい金髪を揺らし、何かに夢中になって遊ぶ姿を見せている。頬は桃のように紅潮し、まだ言葉を話し始めたばかりのような年頃である。クロードは1901年に生まれているため、制作年とされる1905年頃にはおよそ4歳。絵画の人物と実際の年齢がぴたりと重なる。
画家の息子をモデルとした作品は美術史に数多くあるが、ルノワールの場合、そこには単なる親の愛情の吐露という以上の、繊細な観察と色彩の探求が共存している。クロードの姿は、決して肖像画的な硬直性に陥らず、自然な動きと幼児特有の重心の低さがよく表現されている。視線は画面外に向けられており、観る者に何を見ているのかを想像させる余地を残している。
この「親密な距離感」が、作品にぬくもりと説得力を与えている。子どもを眺める親の視線がそのまま筆先に宿り、愛情というものが単なる主題ではなく、描写そのものの中に埋め込まれている。ルノワールにとって絵筆とは、親としての自分の手の延長だったのではないか。そう感じさせるほどの自然さが、本作にはある。
ルノワールは1880年代後半以降、人体表現をめぐってある種の危機感を抱いていた。印象派の一員として光と色彩を追い求めた経験は、屋外の風景や日常的な場面において効果を発揮したが、一方で人物表現、とりわけ裸体の肉感をどう描くかという課題には、より構築的なアプローチが必要だと感じるようになったのである。
その結果、ルノワールはラファエロやイングレスの古典的伝統に学び、線や輪郭を重視するスタイルへと舵を切った。だが、1900年頃を境に、その構築性に柔らかさが戻り、ふたたび色彩が自由な呼吸を始める。その到達点のひとつが《遊ぶクロード・ルノワール》であり、触覚的とさえ言える筆触によって、子どもの肌や衣服、背景の光が表現されている。
クロードの肌には、単なるピンクではない複雑な色調が差し込まれており、それは空気と光のなかに存在する肉体そのものを表している。頬や手足にはかすかな影が走り、顔の凹凸や柔らかさを丁寧に捉えている。特に注目すべきは、衣服の白いシャツと青いズボンの描写である。白は決して単調なベタ塗りではなく、紫や灰色、黄みを帯びたタッチが重なり合い、織物の質感を感じさせる。青もまた、純粋な群青ではなく、さまざまな寒暖を含んだ色彩の混淆であり、子どもの体の動きとともにそのシルエットが微妙に崩れ、揺れている。
このような描写の積み重ねが、「見る」という視覚体験を超えて、「触れる」「包まれる」といった感覚の絵画体験を生み出している。
《遊ぶクロード・ルノワール》においては、特別な場面が描かれているわけではない。舞台は明確には定められておらず、屋内か庭先かも定かではない。だが、重要なのはその曖昧さが「日常という祝祭」を表現する装置となっている点である。
ルノワールは生涯を通じて、目の前にある幸福を信じ、それを絵筆で肯定しようとした画家だった。《舟遊びをする人々の昼食》のような華やかな社交場面でも、《読書する少女》のような静謐な室内画でも、そこには一貫して「人間の存在の肯定」がある。本作においても同様で、子どもの遊びという、あまりにささやかな時間が、絵画によって永遠の価値を獲得している。
「幸福は創造されるものではなく、発見されるものである」——ルノワールの絵画はそう語りかけてくる。彼は、美しさや祝福を、絢爛たる構想や壮大な構図に求めたのではなく、むしろ何気ない日常の隅々に発見し、それを見逃さなかった。
本展「ルノワール×セザンヌ―モダンを拓いた2人の巨匠」では、ルノワールとポール・セザンヌ(1839–1906)という、しばしば対照的とされる画家が並列的に紹介されている。たしかに両者の作品には、形式感や空間性へのアプローチにおいて大きな違いがある。セザンヌは対象を「構造」へと解体・再構築する志向を持ち、ルノワールは「触覚的な美しさ」や「親密な関係性」を重視した。
しかしながら、《遊ぶクロード・ルノワール》のような作品を観るとき、セザンヌ的な「形の探究」との親和性も浮かび上がってくる。クロードの顔や手足の形態は、幾何学的というよりは柔らかく自然なものであるが、それでも輪郭線は明確に保たれ、空間に対する立体的な把握がなされている。これはルノワールがイングレス的古典主義に回帰した時期の成果であり、近代的形態感覚と感覚的親密性が稀に見る融合を遂げている。
《遊ぶクロード・ルノワール》は、ルノワールが63歳前後で制作した作品である。すでにリウマチが進行していたとされ、身体的制約のなかでの制作であったことは間違いない。それでも彼は筆を握り続け、むしろ筆を持つ手に包帯を巻き、絵筆を縛りつけてでも描くという、執念のような情熱を示している。
この時期以降のルノワールは、《浴女》シリーズに代表されるような、肉体性の極致ともいうべき女性像を多数制作していくことになる。だが、その前段階としての本作において、すでに「触覚」「肉体」「幸福」「形態」がひとつの絵画空間のなかに同居している点を見逃してはならない。
それは、芸術がいかにして老いとともに深まっていくか、という問いに対する静かな答えでもある。ルノワールは退行することなく、むしろ限界のなかで新たな表現を模索し続けた。その過程にあって、愛する息子の姿を描くことは、単なる情愛以上の意味を持っていたはずである。
ピエール=オーギュスト・ルノワールの《遊ぶクロード・ルノワール》は、芸術が幸福の証言者でありうることを証明する作品である。ここには大げさな象徴も政治的主張も存在しない。ただ、ひとりの子どもが夢中になって遊ぶ時間が、限りない優しさとともに描きとめられている。
だが、その「何も起こらない」ことこそが、もっとも偉大な出来事なのだ。絵画とは、出来事を描くものではなく、出来事を超えた「存在の豊かさ」を刻印するものであるとするならば、この作品はまさにその本質に迫っている。
《遊ぶクロード・ルノワール》は、芸術が人生を肯定するために存在することを、誰よりも強く、しかし静かに語りかけてくるのである。
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