【エジプト逃避上の休息】アントン・ラファエル・メングスー国立西洋美術館所蔵
- 2025/7/26
- 2◆西洋美術史
- アントン・ラファエル・メングス, 国立西洋美術館
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聖母と幼子に宿る静謐の美
アントン・ラファエル・メングスの作品《エジプト逃避上の休息》
18世紀中葉、激動の時代にあって古典美の復興を志した画家たちのなかで、アントン・ラファエル・メングスは、新古典主義の先駆者として特異な存在感を放ちます。イタリア、スペイン、ドイツを舞台に活躍し、王侯貴族やローマ教皇の庇護を受けながら、ルネサンスと古代芸術の理想を融合させた彼の作品は、後の新古典主義の展開に多大な影響を与えました。
この作品は、スペイン国王カルロス3世の弟ドン・ルイス王のために描かれ、現在は国立西洋美術館に所蔵されています。
《エジプト逃避上の休息》は、新約聖書マタイによる福音書に語られる「エジプトへの逃避」というエピソードに基づいています。ヘロデ王の幼児殺しから逃れるため、聖家族がエジプトへ向かう途中、一時休息をとる場面です。しかし、メングスはその聖家族のうち、実質的に聖母と幼子イエスに焦点を当て、ヨセフは画面の後景に控えめに描かれるのみです。これにより、作品全体が「聖母子像」のような印象を与えます。
画面の中心には、大地に腰を下ろしたマリアが静かにイエスを抱きかかえ、深い母性愛に満ちた視線を注いでいます。マリアの姿勢は伝統的な「謙譲の聖母」の図像に倣ったものであり、聖母が地面に直接座ることで、神の子であるイエスが人間としてこの世に生まれたという「受肉」の意味が強調されます。メングスの聖母は荘厳でありながら人間的な温かみを湛え、画面全体に静謐な祈りの空気を醸し出しています。
この作品を語る上で欠かせないのは、ルネサンスの巨匠ラファエロとの関係です。特に、当時スペインのアルバ家が所蔵していたラファエロの《アルバの聖母子》(現在はワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)が直接的な参照元であった可能性が指摘されています。《アルバの聖母子》もまた、聖母が地に座して幼子イエスを抱く「謙譲の聖母」の形式をとり、柔らかな構図と優美な表情によって宗教的感情を喚起する作品です。
メングスはラファエロの形式を忠実に継承しながらも、18世紀的な新古典主義の感覚をもって再解釈しました。輪郭は明瞭で、明暗の効果も控えめに、均整のとれた構図と抑制された感情表現が画面に清澄さを与えています。これは、当時のローマやマドリードにおける古典回帰の潮流に合致しており、宗教画の中に「理性」と「節度」という新古典主義の理想が反映されているのです。
1761年、メングスはスペイン国王カルロス3世の招聘を受けてマドリードに渡り、宮廷画家としての職務に就きました。カルロス3世は啓蒙専制君主として知られ、芸術・学問への支援を惜しまなかった人物です。メングスはこの文化的政策の一翼を担い、王宮装飾や肖像画制作に加えて、王族の宗教的信仰を反映する宗教画も手がけました。
本作は、そのような文脈のなかで、王弟ドン・ルイスのために描かれたとされます。ドン・ルイスは聖職に就いた後、芸術愛好家としても知られ、メングスの保護者の一人でした。《エジプト逃避上の休息》は、王族の礼拝空間や私室に飾られるための小型宗教画と考えられ、その用途にふさわしく、静かで瞑想的な雰囲気を湛えています。
18世紀において、宗教画は依然として絵画の主流ジャンルのひとつでしたが、バロックのような劇的で感情過多な表現は次第に時代の要請から外れつつありました。メングスはその過剰性を嫌い、より整然とした形式美と倫理的な内省を尊重しました。
本作では、聖母の内に込められた「謙譲」や「母性愛」が、画面の抑制された構図と柔らかな色彩によって表現されています。イエスは無防備に母の腕に抱かれ、眠っているように見えますが、その安らぎこそが神の加護の証であり、画面を観る者にもまた静かな信仰の感情を呼び起こします。こうした「理知的感情」の表現は、メングスの理想とする宗教画のあり方を如実に示しています。
この作品は油彩で描かれていますが、素材はキャンバスではなく板です。板絵は、ルネサンス以前から16世紀半ばまで多く用いられた形式であり、メングスがあえてこの技法を選んだことには象徴的な意味があると考えられます。
板絵は表面が平滑で、細部の描写や輪郭の明瞭な処理に適しています。メングスが追求した「完璧な形態美」や「理性的秩序」を実現するには、まさにうってつけの素材だったのです。また、古典への回帰という観点からも、板絵は過去への敬意を示す手段の一つであったと考えられます。
アントン・ラファエル・メングスの芸術は、その後の画家たち、特にジャック=ルイ・ダヴィッドをはじめとするフランス新古典主義の旗手たちに大きな影響を与えました。美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンと親交を結び、古代芸術の理念を共に築き上げたことでも知られるメングスは、単なる宮廷画家にとどまらず、美術理論家としても新古典主義の礎を築いた人物です。
《エジプト逃避上の休息》は、そうしたメングスの理想が凝縮された作品であり、宗教画というジャンルの中で新古典主義的形式美がどのように昇華されうるかを示した好例です。メトロポリタン美術館に所蔵されていることにより、現在では世界中の鑑賞者がこの作品に触れることができ、18世紀の宗教芸術が持つ精神性と美の可能性を再確認する機会を与えています。
アントン・ラファエル・メングスの《エジプト逃避上の休息》は、ラファエロ的伝統と18世紀の新古典主義美学が静かに結晶した作品です。聖母の謙虚な姿に宿る人間的な優しさと神聖さの両義性、そして幼子イエスに託された希望の象徴性は、時代を超えて私たちの心に訴えかけます。
芸術とは、時代を写す鏡であると同時に、人間の永遠の問いに答えようとする営みです。本作を前にしたとき、私たちはその静謐な光景の中に、自らの魂の平安と希望を見出すことができるのではないでしょうか。
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