【ラ・シャートル伯爵夫人Comtesse de la Châtre (Marie Charlotte Louise Perrette Aglaé Bontemps)】ヴィジェ=ルブランーメトロポリタン美術館所蔵

【ラ・シャートル伯爵夫人Comtesse de la Châtre (Marie Charlotte Louise Perrette Aglaé Bontemps)】ヴィジェ=ルブランーメトロポリタン美術館所蔵

優雅なる逃避の肖像

ヴィジェ=ルブラン《ラ・シャートル伯爵夫人》(1789年制作、)

1789年、革命の熱がパリの空気を震わせ始めていたこの年に、ひとりの女性肖像画家が描いた一枚の優美な肖像画――それが、エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランによる《ラ・シャートル伯爵夫人》です。画面には、透き通るような白いモスリンのドレスをまとい、静かに佇む女性が描かれています。その姿には、上流社会の優雅さと同時に、時代の不穏な気配から距離をとろうとする一種の「逃避」が感じられます。

本作は、ヴィジェ=ルブランの最盛期にあたる時期に描かれ、現在はニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されています。そこに描かれたラ・シャートル伯爵夫人(マリー=シャルロット=ルイーズ・ペレト・アグラエ・ボンタン、1762–1848)は、当時の王政を象徴する女性のひとりであり、本作は彼女の階級、気品、思想を余すところなく伝える肖像画として、きわめて価値ある作品となっています。

モデルと画家、ふたりの女性の交差
ラ・シャートル伯爵夫人、マリー=シャルロット・ボンタンは、ルイ15世の側近である高官を父に持ち、王政と宮廷文化のなかで育ちました。彼女のような貴族女性にとって、肖像画は単なる記録や装飾以上の意味を持ちます。それは「身分の可視化」であり、「美徳の象徴」であり、「時代との対話」でもありました。

一方、この肖像を描いたエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755–1842)は、当時もっとも高名な女性画家として活躍しており、特にマリー・アントワネットのお気に入りの画家として王妃の肖像を多数描いていました。ヴィジェ=ルブラン自身も貴族社会に近しい立場にあり、宮廷文化の崇高な理想とロココ的な優美さを体現する存在でした。

このように、画家とモデルはともに、旧体制(アンシャン・レジーム)に深く根ざした女性であり、彼女たちの美意識や政治的立場も近似していたと考えられます。実際、ラ・シャートル伯爵夫人はフランス革命の勃発とともに王党派として国外に逃れ、画家ヴィジェ=ルブラン自身も革命を恐れて国外へ亡命しました。本作には、そうした「失われゆく世界への愛惜」の感情も静かににじみ出ているのです。

革命前夜のファッション革命:白いモスリンのドレス
この肖像画で特に目を引くのは、伯爵夫人が身にまとう白いモスリンのドレスです。これは当時としては非常に斬新な選択でした。18世紀フランスの貴族女性の肖像には、一般的に絢爛たる絹のドレス、フリルや宝石で飾られた衣装が描かれるのが通例であり、モスリンのような簡素な布地を用いた衣服は本来下着や田舎風のものと見なされていました。

しかし、マリー・アントワネットがこの「ナチュラルな装い」を好んだことで、白いモスリンは瞬く間に貴族女性の間で流行となりました。農村風の装いが逆説的に最上級の洗練と見なされるという逆転現象は、18世紀末のファッションの特徴のひとつであり、それは政治的、文化的転換の兆しとも言えるものでした。

ヴィジェ=ルブランは、こうした流行を巧みに取り入れ、伯爵夫人の清楚で気品ある佇まいを見事に表現しています。ドレスの質感は柔らかく、身体に優しくフィットし、まるで画面から風が吹き抜けているかのような空気感を醸し出します。これにより、従来の硬直した宮廷肖像にはない自然さと親密さが絵に宿るのです。

英国風ポーズの革新性
この肖像画のもうひとつの革新的な要素は、モデルのポーズです。伯爵夫人はやや肩を落とし、身体を斜めに構えてリラックスした姿勢を見せています。これは当時のフランス肖像画にはあまり見られなかったスタイルで、イギリスの肖像画家ジョージ・ロムニーが描いたエマ・ハミルトンのような「英国風の優雅な自然さ」を取り入れたものと考えられています。

イギリス肖像画は、18世紀後半から「自然で洗練された姿勢」によって注目を集めており、それは貴族の新しいイメージ――形式的ではなく、内面の誠実さや知性を表すスタイル――と重なります。ヴィジェ=ルブランはこの潮流を意識的に取り入れ、伯爵夫人の中に「知性ある優美さ」を表現しました。

ポーズ、表情、ドレス、背景――それらが一体となって、この肖像画は単なる個人の似姿を超え、時代の価値観や感性までも視覚化した作品となっています。

革命の影と肖像画の役割
《ラ・シャートル伯爵夫人》が描かれた1789年は、まさにフランス革命が始まった年です。貴族にとっては、この年を境に社会的立場や生命そのものが脅かされるようになります。その意味で、この作品は、革命前夜の貴族社会における最後の「優雅さの表現」であるとも言えるでしょう。

肖像画は、単に「ある人物を記録するもの」ではありません。それは「ある時代の価値観を封じ込める装置」であり、「見る者の想像力を誘導する物語装置」でもあります。革命によって宮廷文化が破壊された後に残された肖像画は、かつての美学、身分秩序、女性像を静かに物語り続ける「視覚の遺言」として機能します。

ヴィジェ=ルブラン自身も、革命が激化する中で国外に亡命し、イタリア、オーストリア、ロシアなどを巡って多くの王族や貴族の肖像を描き続けました。ラ・シャートル伯爵夫人と同様に、彼女もまた「亡命者」としての人生を生きたのです。本作には、そうした画家自身の内面も重なっているかもしれません。

時代を超えて残る優雅さ
今日、私たちが《ラ・シャートル伯爵夫人》を見つめるとき、そこに感じるのは単なる18世紀の貴族女性の姿ではありません。それは、あらがい難い時代の流れの中で、最後まで「美しくあろうとした」ひとりの人間の気高さです。白いモスリンのドレス、やわらかく結ばれた髪、静かな眼差し。そのすべてが、私たちに語りかけてきます――「美は、時代がどれほど荒れようとも、消え去ることはないのだ」と。

ヴィジェ=ルブランの筆は、ただの記録や技巧を超えて、魂の輪郭を描き出します。《ラ・シャートル伯爵夫人》は、その象徴として、これからも多くの人々の目と心に触れ、18世紀の光と影を語り続けていくでしょう。

画像出所:メトロポリタン美術館

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