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【好奇心旺盛な少女】カミーユ・コローーメトロポリタン美術館所所蔵
- 2025/7/15
- 09・印象主義・象徴主義美術
- Camille Corot, カミーユ・コロー, バルビゾン派, フランス, 現実主義
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無垢なる眼差し
カミーユ・コローの作品《好奇心旺盛な少女》
カミーユ・コローといえば、柔らかな光と霧に包まれた詩情豊かな風景画で広く知られる画家です。フランスのバルビゾン派と印象派の橋渡し役として美術史上に名を刻む彼は、生涯を通じて数多くの自然風景を描きながらも、晩年には人物画に心を寄せるようになりました。
今回紹介する《好奇心旺盛な少女》(1860–64年制作、)は、そうしたコロー晩年の人物画の魅力が凝縮された一作です。本作には、物語的な要素や劇的な構成はなく、ただ一人の少女の姿が描かれているにすぎません。しかしその静かな画面からは、計り知れないほどの豊かな感情と観察がにじみ出ています。本稿では、この作品の魅力を読み解きながら、コローの人物画に込められた美学とまなざしを探っていきます。
《好奇心旺盛な少女》は、1860年代前半に制作されたと考えられています。技法としては、厚紙に描かれた油彩画を木の支持体に貼り付けるという少し特殊な形式で、比較的小さなサイズで制作された室内作品です。これは展示用というよりも、私的な空間で親しむことを想定した「親密さ」を備えた作品と考えられます。
画面には、一人の少女が座り、こちらに視線を向けている様子が描かれています。背景はごく簡素で、特定の場所を示すようなディテールはありません。画面全体は柔らかい色調で統一され、光が少女の顔や肩に優しく当たり、その表情と存在感を静かに浮かび上がらせています。
とりわけ印象的なのは、少女の目線です。じっとこちらを見つめるようでもあり、何かに引き寄せられたような瞬間でもあります。その眼差しには、幼い好奇心、警戒心、無垢な探究心といった複数の感情が交錯しており、鑑賞者はその解釈を委ねられることになります。
本作に描かれている少女について、コローの友人や同時代の証言によれば、彼の晩年に頻繁に登場するモデル、エマ・ドビニー(Emma Dobigny)に似ているとされています。彼女は、1860年代以降のコロー作品に繰り返し登場するモデルであり、ロマン派画家たちにも広く好まれた人物でした。
エマは、決して職業的な美の象徴として描かれたわけではなく、むしろその自然体な佇まいや、演技を伴わないまなざしが魅力とされました。コローは、彼女を理想化することなく、しかし深い敬意と親しみをもって描いたように思われます。《好奇心旺盛な少女》においても、モデルの存在が画面を支配するのではなく、あくまでも静かな観察の対象として、そこに「いる」のです。
19世紀フランス美術において、「ジャンル絵画」は、神話や宗教、歴史といった大きな物語ではなく、日常の一場面を描いた絵画形式として確立されていました。コローの人物画は、明確な物語性を持たず、ただ人物の存在そのものを描くという意味で、このジャンル絵画の一類型に位置づけることができます。
しかしながら、彼の人物画は一般的なジャンル絵画とも一線を画しています。たとえば、他の画家たちがしばしば感情的なドラマや風俗的な描写を強調するのに対し、コローの絵には物語がありません。《好奇心旺盛な少女》もまた、彼女が何を見ているのか、どこにいるのか、どういう背景を持っているのか、いずれも描かれていません。そうした「何も起こっていない静けさ」こそが、彼の人物画の本質的な魅力となっています。
本作を含むコローの人物画は、同時代の批評家たちから「ナイーヴ」という言葉でしばしば賞賛されました。この言葉は、現代日本語では「幼稚さ」や「単純さ」といったやや否定的な意味合いがありますが、19世紀のフランス批評においては、むしろ「無垢」「素朴」「飾らない美しさ」を意味する積極的な表現でした。
コローの少女像には、まさにこの「ナイーヴ」さが凝縮されています。演出されたポーズもなければ、感情過多な表情もありません。無理に鑑賞者の感情を動かそうとせず、ただ存在そのものとしての少女を描く。彼の描く人物は、技巧を誇ることなく、自然でありながらどこか神秘的な光を放ちます。
人物画においても、コローは風景画家としての視点を失いませんでした。彼の人物画は、まるで「風景のように」描かれていると言っても過言ではありません。《好奇心旺盛な少女》においても、彼女はあたかも風景の中の一部のように静かに佇み、光や空気に包まれています。
色彩はごく控えめで、淡いグレー、くすんだブルー、柔らかな茶色など、いわゆる「地味」な色が用いられています。しかしそれらが絶妙なバランスで重ねられ、柔らかな光の中に人物が浮かび上がるように描かれています。筆触は滑らかで、ほとんど痕跡を残さないほどに丁寧に処理されており、それが画面全体に「静謐」という言葉がふさわしい空気感をもたらしています。
《好奇心旺盛な少女》のような作品は、巨大な歴史画のように観客を圧倒するのではなく、むしろ小さな声でそっと語りかけてくるような性格を持っています。それは、家庭の書斎や小さな私室にそっと飾られていそうな親密な世界であり、日常に根ざした、しかし深い感情を呼び起こすものです。
この作品には「物語」がない代わりに、「時間」があります。少女が見つめているその瞬間は、何かの前でも後でもなく、ただその「今」に満ちています。鑑賞者はその時間に同調し、少女とともにその静かな時間を「生きる」ことになるのです。これは、時間が流れるのではなく「静止する」体験であり、それこそがコローが目指した詩的リアリズムだったのでしょう。
カミーユ・コローの《好奇心旺盛な少女》は、決して大作ではなく、技巧を誇るわけでもありません。それでもこの作品は、150年以上の時を越えて、今なお鑑賞者の心に直接語りかけてきます。
少女の視線は、絵の外の「私たち」に向けられています。無垢で飾らないそのまなざしに、私たちは何を見るでしょうか?それは彼女の姿ではなく、私たち自身の内面かもしれません。芸術の力とは、観る者を「見る者」に変える力でもあります。そして、コローの人物画はまさにその力を秘めています。
風景の詩人であった彼が、人物画においてもまた沈黙の詩人であり続けたこと。それは、《好奇心旺盛な少女》の一枚の絵の中に、静かに、しかし確かに刻まれているのです。
画像出所:メトロポリタン美術館
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