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【ふくれっ面(Sulking)】エドガー・ドガーメトロポリタン美術館所蔵

エドガー・ドガ『ふくれっ面(Sulking)』(1870年)
19世紀フランスの芸術界において、エドガー・ドガは、印象派に属しながらも独自のリアリズムと心理的洞察によって際立つ存在でした。その中でも1870年に制作されたとされる作品『ふくれっ面』は、日常の一場面を描くジャンル絵でありながら、登場人物の内面や人間関係の複雑さまでもが静かに浮かび上がる秀作です。現在この作品はニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されています。
この絵には、当時よく知られていたふたりの人物が描かれています。一人は文筆家のエドモン・デュランティ、もう一人はモデルとして名高かったエマ・ドビニーです。彼らはオフィス、あるいは小規模な銀行と思われる室内空間で対面しています。画面左に座る男性は、体をやや沈ませた姿勢で前を見据え、右手には書類か新聞のようなものを持っています。一方、女性は洗練された訪問着をまとって椅子に腰掛け、足を組んだ状態で横を向いています。彼女の視線は男性にも鑑賞者にも向けられておらず、心ここにあらずといった様子が伺えます。
作品の構成において印象的なのは、イギリスの競馬を描いた版画が背景に飾られていることです。この版画は当時流行していたモチーフであり、ドガが異文化や現代性に対して強い関心を抱いていたことを物語っています。また、このディテールは、同時代の画家ジェームズ・ティソ(James Tissot)による作品を想起させるものであり、ドガがジャンル絵においても多彩な影響を受けていたことを示しています。
しかしながら、この絵画の最大の魅力は、構図や背景よりも、ふたりの人物の間に漂う「沈黙」の重みにあります。タイトルの「ふくれっ面(Sulking)」という言葉が示唆するように、登場人物の間には何らかの感情的なすれ違い、あるいは微妙な緊張関係が存在するように感じられます。女性は帽子をかぶらず、訪問着のままくつろいだ姿勢をとっている点から、フォーマルな場面ではなく、私的な、あるいは親密な関係の中での一幕であることが推察されます。しかし、ドガは明確なストーリーや関係性を明示することは避け、あくまで鑑賞者の解釈に委ねています。
こうしたあいまいさこそが、本作を単なる風俗画にとどまらない奥深さへと導いています。ドガは、この一見静かな場面の中に、感情の交錯や沈黙の中の言葉にならないメッセージを織り込んでいます。彼の筆致は繊細かつ計算されており、女性の表情の微妙な変化や、手の位置、脚の組み方など、細部の描写から心理的なニュアンスが読み取れるように構成されています。
また、照明の効果も見逃せません。画面全体には柔らかな光が差し込み、人物の輪郭が穏やかに浮かび上がることで、緊張感と静謐さが同居する空気を作り出しています。背景と人物とのコントラストはあまり強くなく、全体に調和のとれた色調が用いられているため、観る者は自然とふたりの人物の間に漂う空気感に集中させられます。
この作品に見られるような「言葉にならない心理描写」は、ドガが文学的素養と観察力を併せ持っていたからこそ可能だった表現です。エドモン・デュランティは実際に文学評論でも知られており、彼の存在がこの作品における「観察されるもの」と「観察するもの」の構造をさらに深めているともいえるでしょう。また、エマ・ドビニーはしばしばドガの作品に登場するモデルであり、その親しみやすい外見と豊かな感情表現が、ドガの主題に生命を与えていました。
このように、『ふくれっ面』は、人物の姿勢や視線、表情、衣服、背景の要素すべてが有機的に絡み合いながら、見る者に多層的な解釈を促す絵画です。ドガは、まさにその曖昧さを通して、現代人の感情の繊細さや複雑さを描き出そうとしたのかもしれません。
19世紀末という時代は、産業化と都市化が進行する中で、人々の人間関係もまた急速に変化していました。かつての素朴な絆や家族的なつながりは、多様化する社会の中で再定義されつつありました。『ふくれっ面』に描かれたふたりの登場人物の姿は、そうした社会の変化を背景に、人間の感情やつながりがいかに曖昧で壊れやすいものであるかを象徴しているようにも見えます。
ドガは、人物の外見を正確に描写するだけではなく、彼らの心の動き、内面的な葛藤をも視覚的に表現しようとしました。そのためには、構図の選定や光の使い方、色彩のバランスといったあらゆる技術を駆使しなければなりませんでした。『ふくれっ面』においても、彼のこうした探求心が如実に表れています。ふたりの間の距離感は、物理的な空間以上に心理的な隔たりを象徴しており、鑑賞者はその間に何があったのか、何が語られなかったのかを想像せずにはいられません。
また、この作品は、ジェンダーや社会的役割に関する視点からも興味深いものです。女性が沈黙し、内向的な表情を浮かべているのに対し、男性はより公的な役割を担っているように見える構図は、当時の社会における性別役割の固定観念を映し出しているとも解釈できます。しかしドガは、こうした役割をそのまま肯定するのではなく、むしろ静かな反語として提示しているようにも思えます。女性の視線や姿勢からは、自立した感情と個性が感じられ、それは決して受動的ではありません。
エドガー・ドガは「印象派」と呼ばれる画家たちの中でも、特に人物表現に対する鋭い洞察力を持っていた画家です。彼の目には、人々の一瞬のしぐさや沈黙の中にさえ、豊かな物語が映っていたのでしょう。『ふくれっ面』はその代表的な例であり、私たちに「見えないものを感じる」力を再認識させてくれる作品です。ドガの視線が導くその静謐な世界には、現代に生きる私たちが抱える感情の揺らぎや人間関係の複雑さまでもが静かに映し出されています。
画像出所:メトロポリタン美術館
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