【麦わら帽子をかぶった自画像(裏面:ジャガイモの皮をむく人)】フィンセント・ファン・ゴッホ‐メトロポリタン美術館所蔵

【麦わら帽子をかぶった自画像(裏面:ジャガイモの皮をむく人)】フィンセント・ファン・ゴッホ‐メトロポリタン美術館所蔵

麦わら帽子の下にある真実 ― フィンセント・ファン・ゴッホの《自画像(裏面:ジャガイモの皮をむく人)》をめぐって
麦わら帽子をかぶった男が、こちらをまっすぐに見つめている。その眼差しは強く、挑戦的でありながら、どこか孤独で沈んだものを含んでいる。黄色みがかった肌、赤みを帯びた髭、浮き上がる骨格、そして背景に散らされた不規則な色彩の筆致。それらすべてが、見る者の視線を一身に引きつける。

これは、フィンセント・ファン・ゴッホが1887年に描いた《麦わら帽子をかぶった自画像(裏面:ジャガイモの皮をむく人)》である。今日この絵は、アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されており、同館が所蔵するゴッホ作品の中でもひときわ印象的な一点である。

この作品は、単なる「自画像」というジャンルを超えて、19世紀後半のヨーロッパ美術の動向、そして画家自身の創作と生の緊張に深く関わっている。本稿では、画家のパリ時代の文脈を出発点としながら、この自画像と裏面の農民画を含む二重構造の意味に光をあて、ゴッホという芸術家の精神の深層に分け入っていきたい。

パリ、1886年――転換点としての都市
ゴッホがパリに到着したのは1886年3月、弟テオ・ファン・ゴッホの住まいに身を寄せたことがきっかけだった。パリは当時、印象派や新印象派(ネオ・インプレッショニズム)、象徴主義などが入り混じる活気に満ちた芸術の中心地であり、地方オランダの暗い室内画から出発したゴッホにとっては、全く新しい世界との邂逅だった。

それまでの彼の画風は、たとえば《ジャガイモを食べる人々》(1885年)に見られるように、レンブラント的な陰影を思わせる深い茶系の色調を特徴としていた。題材も、農民や労働者といった、庶民的で宗教的ニュアンスを帯びたものが多かった。

だがパリにおいて、彼はピサロ、スーラ、シニャックらの影響を受けて、より鮮やかな色彩、光の捉え方、科学的な色彩理論に出会い、自身の表現を根本から刷新しようとした。

この作品は、その過渡期に描かれたものである。

モデル不在の中で――鏡に映る自己との対話
ゴッホがパリ滞在中に描いた自画像は、20点を超えるとされる。そのいずれもが、彼自身をモデルとして描かれた。というのも、彼は慢性的な金銭難に悩まされ、他人のモデルを雇うことができなかったからである。

彼はこう語っている。

「モデルが雇えないので、自分を描くことにした。鏡を買い、そこで自分の顔を研究している。」

この言葉には、自身の表現を磨くためにはあらゆる手段を惜しまないという、彼の真摯な姿勢がにじんでいる。だが同時に、「自画像」であることの意味は、単なる練習や画材の節約という事情だけでは収まりきらない。

ファン・ゴッホにとって、鏡に映る自分を描くことは、自己の内面と向き合う行為であった。鏡の中の顔を描くたびに、彼は自らの精神と向き合い、それを色彩と線によって表出しようとしていた。つまり、自画像は単なる「肖像」ではなく、魂の輪郭を描く試みだったのだ。

麦わら帽子の意味――農民の誇りと都市への抵抗
本作において最も象徴的なアイテムは、題名にもある「麦わら帽子」であろう。都市の画家や洗練された市民が身につけるようなフェルト帽ではなく、素朴な麦わら帽子を選んだ理由はどこにあるのか。

ゴッホはその生涯を通じて、農民や労働者への敬意を持ち続けた。若い頃には牧師を志し、ベルギーの炭鉱地帯で伝道活動に従事したこともある。彼は芸術を、民衆の生活と結びつける道と考えていた。そのため、彼が麦わら帽子をかぶる姿は、単なる「服装の選択」ではなく、自らを「絵画の労働者」「精神の農民」として位置づける表明でもあった。

また、麦わら帽子は自然光の中での制作を象徴する道具でもある。パリにおいて室内から戸外へと制作の場を広げたゴッホにとって、この帽子は新たな創作スタイルへの移行の象徴ともなっている。

新印象派の光――筆致と色彩の冒険
この自画像は、明らかに新印象派の技法と色彩理論の影響を受けている。背景には、青と橙、黄と紫など補色関係にある色が点描的に散りばめられ、顔の陰影にも青緑や赤紫などが巧みに用いられている。

だが、スーラのような緻密な点描ではなく、筆触は粗く自由だ。ゴッホは理論に従うのではなく、自らの感覚を信じて筆を走らせている。彼にとって、色彩は「見えるもの」ではなく「感じるもの」だった。

この作品を通して、私たちは「新印象派的思考」と「感情表現としての色彩」が、ゴッホの中でせめぎ合っている様を垣間見ることができる。

裏面のもうひとつの絵――「ジャガイモの皮をむく人」
この自画像には、もうひとつの側面がある。キャンバスの裏面に、農民がジャガイモの皮をむく姿が描かれているのだ。この事実は、単に「画材が足りなかったから裏にも描いた」というだけではない。むしろ、それ以上の象徴的意味を孕んでいる。

まず、ジャガイモというモチーフは、彼にとって重要な意味を持っていた。前述の《ジャガイモを食べる人々》にも象徴されるように、ジャガイモは「大地の恵み」であり「労働の実り」だった。農民の素朴で誠実な生活を賛美する彼にとって、ジャガイモをむく所作は、日常に潜む尊厳を表す行為だった。

自画像の裏面にその姿を描いたという構造は、自己と他者、芸術家と農民、都市と田舎という二項対立の間に橋をかけるような意味を持っている。ゴッホは「自分という存在」を、そうした日々の営みと地続きのものとして認識していたのだ。

絵の中の眼差し――沈黙する問いかけ
この作品の中で、見る者の心を最も強く打つのは、やはり画家の眼差しである。少し横を向いた顔の中で、その瞳だけが鋭くこちらを射抜いてくる。

その視線には、自己への苛烈なまなざしと同時に、他者への沈黙の問いかけが潜んでいる。孤独と狂気、希望と絶望、創造への飽くなき渇望。そうした内的葛藤が、この一瞬の眼差しに凝縮されているように見える。

総括――一枚のキャンバスに込められた二重の人生
《麦わら帽子をかぶった自画像(裏面:ジャガイモの皮をむく人)》は、表と裏にふたつの絵が描かれているという点で、文字通り「二面性」を持つ作品である。しかしそれは単に物理的な構造にとどまらず、画家の芸術と人生そのものの二面性を象徴している。

パリで光と色を学びながら、なおも農村的な価値観を捨てきれなかったこと。自己を描くことによって、他者への共感を探ったこと。そして、外面的な色彩の実験の中に、内面的な闇と苦悩を滲ませたこと。すべてがこの作品に集約されている。

麦わら帽子の下には、芸術家としての顔と、ひとりの人間としての顔が重なり合っている。そしてその裏面には、地に足のついた生活者としての価値観が、静かに息づいている。

ゴッホはこの作品で、自己の肖像を描いたと同時に、「芸術とは何か」「人間とは何か」という根源的な問いを投げかけている。それは今なお、私たちに強く響く問いである。

画像出所:メトロポリタン美術館

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