「聖女ファビオラの飾りトレー」は、19世紀後半ヨーロッパで制作された、宗教的モチーフを持つ装飾工芸品である。中型サイズの平皿状の器面に、聖女ファビオラの肖像が繊細に描かれ、周囲には華麗な装飾が施されている。
素材にはエマーユ（七宝焼き）技法と金属細工が組み合わされ、鮮やかな色彩と光沢が器全体を覆っている。

本作は、宗教的精神を日常生活の中にさりげなく取り込むための「飾りトレー」として作られた。実用性よりも観賞性を重視した意図が見て取れ、現在では、19世紀末の宗教工芸文化を象徴する重要な作品と評価されている。

19世紀後半、ヨーロッパでは産業革命の影響で大量生産が普及した一方で、手仕事による伝統的な工芸の価値が再び見直される動きが起こった。特に、ヴィクトリア朝時代のイギリスや、第二帝政期のフランスでは、日常生活の中に「美」を取り入れることが上流階級の教養とされ、装飾工芸品の需要が高まった。

また、宗教的精神への回帰も見られ、個人信仰を支えるための小型の宗教画や工芸品が数多く生産された。飾りトレーもまたその一例であり、信仰と美意識が融合した作品として、家庭の聖域を飾る役割を果たした。

本作「聖女ファビオラの飾りトレー」も、こうした文化潮流を背景に、精神性と審美性を兼ね備えた生活芸術品として制作されたのである。

聖女ファビオラ（Fabíola）は、4世紀ローマ時代の貴族女性であり、カトリック教会によって聖人に列せられた人物である。彼女は、一度は社会的に非難される道を歩みながらも、深い悔悛と信仰によって生涯を捧げ、病者や貧者のために尽くした。

ファビオラの生涯は「慈愛」と「贖罪」の象徴とされ、特に病院の創設者、看護・医療活動の先駆者として讃えられた。彼女の物語は19世紀に再び脚光を浴び、ドイツやフランスでは彼女をモデルにした小説や宗教画が流行する。

このような文化的背景のもと、聖女ファビオラの肖像を冠した飾りトレーは、ただの装飾品以上の意味を持った。持ち主にとっては、心の支えとなる「小さな聖域」であり、日常の中で信仰を想起させる存在だったのである。

19世紀後半、飾りトレーはヨーロッパの上流・中流階級の家庭で愛されたインテリアアイテムであった。単なる実用道具ではなく、美術品として壁に飾ったり、机上に置いて日常の中に優雅な雰囲気を演出するために用いられた。

宗教的なテーマを持つ飾りトレーは、家庭内の小聖堂（プライベートチャペル）や、寝室、書斎などに置かれ、個人の信仰生活と密接に関わった。これにより、宗教美術は巨大な教会建築だけでなく、個人の生活空間にも深く根づいていったのである。

「聖女ファビオラの飾りトレー」も、こうした家庭信仰の文脈において、精神の拠り所となる役割を担ったと考えられる。
本作は、エマーユ（七宝焼き）による精密な絵付けと、金属細工による装飾が特徴である。
まず中央には、聖女ファビオラの横顔が細密に描かれている。彼女は赤いヴェールを纏い、わずかに俯く姿で表現されており、その目線には静かな祈りと慈悲が込められている。肌の柔らかなグラデーション、ヴェールの布地感の表現など、エマーユならではの透明感と輝きが見事に活かされている。

周囲の装飾枠には、葡萄蔓やアカンサスの葉をモチーフとする金属細工が施され、金彩による繊細な模様が加えられている。背景には淡い青や緑が配され、聖女の姿を引き立てると同時に、全体に穏やかな調和をもたらしている。

トレーの縁取りにはわずかな浮き彫りが施され、見る角度によって光を柔らかく反射する。その効果により、聖女像がまるで内側から光を放っているかのような錯覚を生んでいる。

本作の聖女ファビオラ像は、19世紀後半に流行した「純粋性」と「内面の美」を強調するスタイルを典型的に示している。
特に注目すべきは、顔の輪郭線の柔らかさと、視線の方向である。彼女は直接こちらを見つめるのではなく、やや斜め下方を見つめ、内省的な静けさを表現している。これは、持ち主自身に「内なる対話」を促すための意図が込められていると考えられる。
また、赤いヴェールは悔悛と献身の象徴であり、そこに施された微細な金糸模様は、聖女の高貴な精神性を象徴している。このように、本作の聖女ファビオラ像は、当時の信仰と美意識が結晶した、極めて高い完成度を持つ作品となっている。

梶コレクションは、ヨーロッパ19世紀工芸の優品を体系的に収集した貴重なコレクションである。「聖女ファビオラの飾りトレー」は、その中でも宗教的精神と美術的技巧が高度に融合した作品として、特に重要な位置を占める。

このトレーは、宗教と工芸、個人信仰と社会文化が交差する19世紀後半のヨーロッパの一断面を、実に鮮やかに伝えている。
また、同コレクションには他にもエマーユ技法を用いた聖女図が複数存在するが、「聖女ファビオラの飾りトレー」はサイズ、技巧、精神性の面で群を抜いており、ひときわ印象深い存在となっている。

この飾りトレーを鑑賞する際には、まず聖女ファビオラの内省的な表情に注目したい。彼女の穏やかで包み込むような眼差しは、時代を越えて私たちに静かなメッセージを送っている。

また、トレー全体の色彩設計――聖女を包み込む背景色、枠飾りの金細工、エマーユの輝き――にもぜひ目を向けたい。そこには、単なる技巧自慢ではない、精神性を内包した「美」の追求が感じられる。

本作は、宗教美術でありながら、どこか人間的な温かさを湛えている。それは、19世紀後半という時代が求めた「信仰の美」の一つの理想像であり、現代の私たちにとってもなお新鮮な感動を呼び起こすものである。

「聖女ファビオラの飾りトレー」は、単なる過去の遺物ではない。今なお、静かに、しかし確かに、見る者に内面の対話と癒しをもたらしてくれるのである。