【版画収集家(The Collector of Prints)】エドガー・ドガーメトロポリタン美術館所蔵

【版画の収集家 The Collector of Prints】フランス‐エドガー・ドガ(Edgar Degas)‐印象派

芸術を集めるという行為の肖像
19世紀フランスの画家エドガー・ドガは、印象派という言葉で一括りにされることも多いが、実際にはその活動の多くが印象派の枠には収まらない。バレエダンサーや娼婦、競馬場の騎手や洗濯女など、彼が描いた人物たちは生き生きとした動きの只中にある一方で、どこか醒めたまなざしを感じさせる。そんなドガのもうひとつの側面を明瞭に示す作品が、1866年ごろに描かれた《版画収集家》である。

この絵画には、華やかな舞台も、人々の動きも存在しない。描かれているのは、ひとりの男が版画を眺めるという地味な場面だ。しかしそこには、芸術における「見ること」「所有すること」「分類し、比較すること」といった行為が凝縮されており、ドガの知的で観察的な眼差しが静かに、だが確かに表現されている。

絵画の舞台は、まるで美術収集家の書斎か小さなギャラリーのような室内である。画面中央には、眼鏡をかけた中年男性が身を乗り出し、1枚の版画を食い入るように見つめている。周囲には引き出し式の平置き棚や、無造作に広げられた紙、さらに壁には掲示物のように貼り付けられた布や画片が確認できる。その脇にはもう1人の人物がいて、椅子に腰かけ、物思いに耽っているようにも見える。

描かれている場面に劇的な動きはない。だが、じっと版画を見つめる主役の姿からは、彼の内面の緊張感と集中が静かに伝わってくる。何気ない日常の一場面であるはずが、その静けさゆえにむしろ見る者の注意を強く惹きつけるのである。

この絵が興味深いのは、単なる人物画ではなく、「収集」という行為自体が主題になっている点にある。画中の男性が見ているのは、植物画家ピエール=ジョゼフ・ルドゥテ(Pierre-Joseph Redouté)による色彩版画。19世紀前半に人気を博したが、ドガがこの絵を描いた頃にはすでに「時代遅れ」とされていたものである。

この旧式の版画と対照をなすように、部屋のなかには中国・唐代の陶馬(Tang dynasty horse)や、日本の織物と見られる布が掲示されている。つまり画面には、古めかしい美術と当時の「オリエンタリズム」的趣味の対象とが併置されているのである。ドガはこの構図によって、人物の趣味嗜好や収集の偏りを描き出すだけでなく、観る者にも美的評価の基準を問うている。

この絵を通じて我々は、芸術を「持つこと」や「選ぶこと」の背後にある個人的、時代的な価値観と向き合うことになる。作品は、ただ版画を見つめる男の姿を描いているようでいて、実は美術と人間の関係性を問いかけているのだ。

1860年代から70年代にかけてのドガは、パリの街のさまざまな場面で、人物が何かの「最中」にある瞬間をとらえた作品を多く残している。音楽家が譜面を読み、婦人が髪を結い、踊り子がストレッチをしている――そうした「途上の姿」にこそ、ドガは人間の本質を見出そうとした。完成されたポーズではなく、行為の途中に見える無意識な動き、ふとした表情、思考の陰影。それらが彼の筆致にとって、何よりも貴重な題材だった。

《版画収集家》もまた、そうした試みの一環として位置づけることができる。ドガはここで、芸術を「見る」行為に没入する男の姿を通じて、知的好奇心や個人的な偏愛、趣味の体系化といった人間の精神的営為を視覚的に提示している。人物の動きは最小限だが、視線の動き、頭のなかの対話、過去と現在のイメージのせめぎ合いが、画面の内にひそやかに展開されている。

この絵には、もうひとつの視点もある。それは、ドガ自身がこの収集家にどこかで自己を重ね合わせていた可能性である。ドガは膨大な量の版画や素描を収集し、自宅の一室にそれらを保管していたと伝えられる。また、彼は美術史にも造詣が深く、ルーヴル美術館で旧作を模写することに多くの時間を費やしていた。

つまり、《版画収集家》は他人を描いた作品であると同時に、「芸術に取り憑かれた者」の肖像、すなわち自己を投影した鏡像としての側面もあるのだ。そこには、芸術作品を創造する者としてのドガと、それを研究し、所有し、体系化しようとする知的な衝動との間にある緊張関係が感じられる。

この絵は、収集という行為に潜む強迫的な面、偏愛の滑稽さ、時代に取り残された美への固執といったものを含みながら、それでもなお芸術を追い求める人間の姿を肯定的に描いている。収集家は滑稽であり、古臭くもあり、しかし同時に、ひたむきで真剣で、どこか愛おしい存在なのだ。

ドガにとって芸術とは、感覚的快楽よりもむしろ「観察と思索」の対象だった。印象派の多くが自然の光や色の変化に関心を示したのに対し、ドガは人物の動きやしぐさ、姿勢や表情の「意味」にこだわった。彼の作品には常に、冷静で観察的なまなざしが漂っている。

《版画収集家》は、そうしたドガの芸術観が如実に現れた作品である。そこには、見ることの喜びと苦しみ、選ぶことの責任、集めることの飽くなき欲望、そして芸術を通じて自らの存在を確かめようとする人間の姿が描かれている。

現代の我々は、スマートフォンで画像をスクロールし、アルゴリズムが推薦する情報を消費していく。そうした時代において、《版画収集家》に描かれた静けさと集中は、どこか遠い時代の理想のようにも感じられる。しかしその一方で、この絵に描かれた「見ることの歓び」や「美に没入する時間」は、今もなお変わらず大切なものである。

ドガの《版画収集家》は、絵の中の男と、それを見る我々自身とを静かに対峙させる。そして、問いかけてくる――「あなたは、何を見つめ、何を愛し、何を集めて生きているのか」と。

【版画の収集家 The Collector of Prints】フランス‐エドガー・ドガ(Edgar Degas)‐印象派
【版画収集家(The Collector of Prints)】エドガー・ドガーメトロポリタン美術館所蔵

画像出所:メトロポリタン美術館

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