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【花とウチワサボテンのある静物】ルノワール‐メトロポリタン美術館所蔵
- 2025/6/18
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《花とウチワサボテンのある静物》—ルノワールの転換期を映す静かな革新
オーギュスト・ルノワールの《花とウチワサボテンのある静物》は、1885年に制作された油彩画であり、現在ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている。この作品は、印象派として名を馳せたルノワールが、自己の画風を見直し、新たな表現を模索した「イングレス風様式(Ingresque)」の探究期における重要な一作と位置づけられている。本稿では、この静物画の構図、色彩、モチーフの選択、そして画家の美術史的な背景と技術的な試みに焦点を当て、作品が持つ意義とその魅力を包括的に論じる。
本作には、特徴的な象の頭部をかたどった取っ手のついた花瓶と、その中に活けられた秋の花々が描かれている。花瓶は、同年に制作された《静物:花》(Still Life: Flowers, 所蔵:グッゲンハイム美術館)と同じものであり、両作品は明らかに相互に関係している。《花とウチワサボテンのある静物》は、この花瓶を中心に、ウチワサボテンの果実(prickly pears)がセザンヌ風に配置されており、画面全体に温かみのある、しかし構成の整った緊張感が漂っている。
ウチワサボテンという選択は一見、印象派の画家として知られるルノワールにしては異質である。しかし、この果実の色合いや質感は、彼がこの時期に志向していた古典的な構成と色彩の「引き締め」を象徴している。果実の硬質で素朴な質感、花瓶の装飾的な重厚感、木製の台の存在感が一体となり、モチーフの持つ静けさと格調の高さを同時に表現している。
1885年の夏、ルノワールはポール・セザンヌを訪問しており、両者の対話や作品から多大な影響を受けていた時期である。セザンヌが自然を幾何学的な形体として把握し、堅固な構造の中に視覚的秩序をもたらそうとした試みに、ルノワールも関心を抱いていた。本作に見られる構図の安定性、物体の存在感、空間の明瞭さは、まさにセザンヌ風のリアリズムへの共感を表している。
印象派の特徴である筆触分割や光の変化の追求を一歩引いて、ルノワールは対象物の固有の形体や存在感を強調しようとする。果実や花瓶、テーブルといった要素が、それぞれの質量と空間をしっかりと保持していることは、セザンヌとの交流がもたらした「構築的視点」の影響であると考えられる。
この時期のルノワールは、印象主義からの脱却を試みていた。1870年代における光と空気感の再現を主眼とする絵画から距離を取り、より「線」による構成力、色彩の抑制、フォルムの確立に重きを置いた表現へとシフトしていく。それは、彼が1881年から83年にかけてイタリアを訪れた影響が大きく、ラファエロやポンペイのフレスコ画に強い感銘を受けたことに起因する。
本作においても、ルノワールは色彩の扱いに慎重で、乾いたような質感を目指している。これは、イタリアの古代フレスコ画の明るく淡い色調に触発されたものであるとされており、油彩でありながら「乾いた」質感を再現しようとする姿勢が見て取れる。実際、その試みにより絵画の表面にはいくつかの亀裂(craquelure)が生じていることが報告されている。
1880年代半ば、ルノワールは「私はもう印象派ではない」と公言していた。この宣言は、彼の画風の変化、すなわち色彩よりも線を重視し、装飾性よりも構築性を追求する姿勢を明確に示している。彼はこの時期、「イングレス風様式(style ingresque)」と呼ばれる、新古典主義的なアプローチを志向していた。これは、ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(J.-A.-D. Ingres)のように明確な輪郭線と構成の厳密さを持つ絵画への憧れである。
《花とウチワサボテンのある静物》においても、物体の外郭がしっかりと捉えられ、線によって各モチーフが明確に区切られていることがわかる。色彩は明るくとも、印象派のように揺らぎや拡散の効果を狙うのではなく、対象物の形体そのものを尊重する静謐な姿勢が際立っている。
本作が興味深いのは、印象派が重視していた「一瞬の光の印象」ではなく、むしろ永続的で不変の「静物」というジャンルに立ち返っている点である。花や果物といった有機的なモチーフは、時間の流れとともに変化し、枯れたり腐ったりするものだが、絵画の中ではその一瞬が永遠に閉じ込められる。ルノワールは、この「永遠の美」の追求において、静物というジャンルの持つ形式美に注目し、そこに古典主義的な理念を投影している。
《花とウチワサボテンのある静物》は、メトロポリタン美術館の印象派・ポスト印象派コレクションの中でも、ルノワールの画風転換期を示す貴重な作品である。その絵画技法や構成、画家の内面的な変化を示す手がかりとして、また印象主義以後のモダンアートの展開を理解する上でも、重要な位置を占めている。
今日この作品を見るとき、我々は単なる花の美しさや果実の色彩にとどまらず、それが生み出された文脈—セザンヌとの対話、イタリア美術の影響、印象派からの脱却、そしてクラシシズムへの回帰—を知ることで、より深い鑑賞の喜びを得ることができる。
ルノワールの《花とウチワサボテンのある静物》は、まさに「過渡期の美学」を象徴する作品である。印象派としてのキャリアの成熟とともに、新たな表現の可能性を求め、古典へのまなざしを再発見した画家の姿が、静かに、しかし確かに現れている。その筆致や色彩は控えめでありながらも、内には確固たる信念と野心を秘めており、19世紀末の芸術家たちの苦悩と革新の軌跡を、今に伝えてくれる。
このような観点から見ると、《花とウチワサボテンのある静物》は単なる「花のある静物画」にとどまらず、時代と美術史、そして画家自身の内面が交錯する、豊かな意味を内包する芸術作品であるといえる。
画像出所:メトロポリタン美術館
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