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【マルゴ・ベラール】ルノワール‐メトロポリタン美術館所蔵
- 2025/6/21
- 09・印象主義・象徴主義美術, 2◆西洋美術史
- ルノワール
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1879年に制作された《マルグリット=テレーズ(マルゴ)・ベラール》は、印象派を代表する画家ピエール=オーギュスト・ルノワールによる、親密で感情豊かな少女の肖像画である。本作は現在、ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されているが、その背後にはルノワールとベルナール家との深い交流、そして画家としての彼の表現の幅広さが込められている。
本作品のモデルであるマルグリット=テレーズ(通称マルゴ)・ベラールは、ルノワールの庇護者であり友人でもあったポール・ベラールの娘である。ポール・ベラールは外交官であり銀行家でもあり、また芸術の熱心な支援者であった。ルノワールとベラールの出会いは1878年、画家がキャリアの新たな転機を迎えつつあった時期に遡る。ベラールはその後、ルノワールを自邸に招き、夏のあいだ家族とともに過ごすことを許し、その滞在の中でルノワールは家族の肖像や邸宅の装飾画などを多数制作した。
このような関係の中で描かれた本作《マルゴ・ベラールは、単なる注文肖像画という枠を超え、画家とモデルとの親密な関係、そして日常の感情の揺らぎに触れる作品として位置づけられる。
画面には、当時5歳のマルゴが胸元から上だけが描かれ、やや身体を傾けながら観る者の方を見つめている様子が捉えられている。彼女の頬は赤らみ、唇はわずかに開かれており、瞳は潤んだようにも見える。実際に、後年マルゴの甥が語ったところによれば、ルノワールはマルゴがドイツ語の家庭教師との不愉快な授業のあと、泣き顔になっていたのを慰めるためにこの肖像を描いたという。つまり本作は、慰めと愛情をこめて描かれたものであり、単なる肖像画というよりは「感情のスナップショット」と言うべき性格を持つ。
このような背景を知ることで、我々は少女のわずかな表情のゆらぎ、目元や口元に宿る繊細な感情の陰影を、より深く読み取ることができる。本作は一見、穏やかで均衡の取れた肖像でありながら、実は少女の内面の震え、心の動きが巧みに捉えられている。
色彩においても、本作はルノワールの画家としての成熟と柔軟性を示している。マルゴの顔や髪は、明るい光に照らされたような柔らかな色調で描かれており、背景にはグレーがかった青や淡い茶色の穏やかな色面が使われている。このような背景は、マルゴの顔立ちを引き立てるだけでなく、全体の雰囲気に静謐さと優しさを与えている。
筆致は印象派的な軽快さを持ちながらも、肖像画にふさわしい繊細な描写力が発揮されている。とくに髪の毛の質感や目の周囲の陰影には、ルノワールが単なる印象派の技法にとどまらず、人物描写に対する高い感受性と技巧を併せ持っていたことが表れている。
ルノワールがベラール家で描いた一連の肖像画は、いわば家族のアルバムのような性格を帯びている。彼はこの一家の子供たち――マルゴ、アンドレ、リュシアン、マドレーヌ――を繰り返し描き、それぞれの年齢や性格に応じて異なるアプローチをとっていた。
マルゴに関しても、後年までに複数の肖像が残されており、年齢ごとに成長の様子を追うことができる。それらは決して堅苦しい公式肖像ではなく、日常の延長線上にあるような、自然で温かなまなざしの中で描かれたものである。その中心にあるのは、画家が子供たちに向けた優しい眼差しであり、彼自身が家族の一員として迎え入れられていたことを証している。
1879年という制作年は、ルノワールにとって重要な転機の時期にあたる。このころ彼は、印象派の純粋な光と色の追求からやや距離を置き始め、より伝統的な構成や輪郭の明瞭な人物描写へと回帰していた。その背景には、ラファエロやイングレスといった古典主義への関心の高まりがある。
《マルゴ・ベラール》はまさにこの過渡期に位置する作品であり、印象派の軽やかで色彩豊かな筆致と、古典的な肖像画の構成が見事に融合されている。これは、ルノワールが純粋な印象派画家にとどまらず、様式と技法の多様性を持つ柔軟な芸術家であったことの証左でもある。
マルゴ・ベラールは1874年に生まれ、1956年に82歳で亡くなった。彼女はルノワールの描いた中で最も多く登場する子供モデルのひとりであり、その面影は今日も彼の作品の中に息づいている。ベラール家にとってルノワールは単なる外部の画家ではなく、家族の一員のような存在であり、その絵画は世代を超えて伝えられ、後にメトロポリタン美術館などの公的機関に寄贈・収蔵された。
本作は、モデルの家族だけでなく、鑑賞者にとっても「家族」というテーマを普遍的なものとして提示する。慰めのために描かれたこの一枚の肖像画は、単なる子供のポートレートにとどまらず、親密さ、情愛、そして芸術のもたらす癒やしの力を静かに語っている。
《マルグリット=テレーズ(マルゴ)・ベラール》は、表面的には小さな少女の肖像にすぎないかもしれない。しかしそこには、ルノワールの人間に対する深い理解、日常の情景に潜む詩情、そして絵画というメディアの可能性が凝縮されている。
彼はこの作品で、悲しみを笑顔に変える絵の力、そして芸術が持つ癒しの本質を描き出した。マルゴの視線は、見る者に語りかけるようであり、その中に時代を超える普遍的な感情が宿っている。それは、愛情、慰め、そして共感――人間が共有する根源的な感情の表現である。
画像出所:メトロポリタン美術館
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