高都護驄馬行(杜甫詩)明時代董其昌-行草書【山高水長-唐宋八大家主題文物展】遼寧省博物館-撮影:ZhangYan
董其昌(とう きしょう、嘉靖34年1月19日(1555年2月10日) – 崇禎9年9月28日(1636年10月26日))は、中国明代末期に活躍した文人であり、特に書画に優れた業績を残した。清朝の康煕帝が董の書を敬慕したことは有名である。その影響で清朝において正統の書とされた。また独自の画論は、文人画(南宗画)の根拠を示しその隆盛の契機をつくった。董が後世へ及ぼした影響は大きく、芸林百世の師と尊ばれた。また、陳継儒、王思任、楊龍友、黄公望、倪瓚、王時敏、夏雲鼎、孔尚任とあわせて「金陵九子」と呼ばれる。
幼い頃より高級官僚にして書家で名を馳せた莫如忠の書生となり、その子莫是龍に兄事した。13歳で科挙の童試に合格し諸生となる。万暦17年(1589年)、35歳にして殿試に及第し進士となり翰林院庶吉士となった。次いで編修、光宗が皇太子の頃の教育係などを歴任し高級官僚の道を歩む。しかし万暦27年(1599年)、政争に巻き込まれて左遷されると病気を理由に職を辞して帰郷。6年後に湖広提学副使になったが生員らの騒擾事件を引き起こしてしまい1年半で辞職。十数年後、光宗が即位するとその招聘を受けて天啓元年(1621年)太常寺少卿に任命され『神宗実録』の編纂に携わる。即位一ヶ月あまりで光宗が卒してしまうとほぼひとりで『光宗実録』を編纂した。この功績を評価され要職を歴任し南京礼部尚書(南京の文部大臣)になった。しかし、権力を掌握した宦官の魏忠賢に粛清されることを危惧して辞職。崇禎4年(1631年)また召し出され南京礼部尚書を任命されたが翌年引退。太子太保を加えられる。帰郷してほどなく病没。死後に太子太傅を与えられる。享年83。南明の福王のときに文敏と諡号が贈られた。
高都護驄馬行-唐時代-杜甫
安西都護胡青驄,聲價欻然來向東。
此馬臨陣久無敵,與人一心成大功。
功成惠養隨所致,飄飄遠自流沙至。
雄姿未受伏櫪恩,猛氣猶思戰場利。
腕促蹄高如踣鐵,交河幾蹴曾冰裂。
五花散作雲滿身,萬里方看汗流血。
長安壯兒不敢騎,走過掣電傾城知。
青絲絡頭為君老,何由卻出橫門道。
展示名称:山高水長——唐宋八大家主題文物展
会期:2020年12月~2021年3月2日
会場:遼寧省博物館
住所:遼寧省沈陽市渾南区中心広場東北側(渾南区智慧三街157号)
出展内容:書畫、碑帖拓片、古籍など計:115点。
重要文化財:【宋人仿顧愷之洛神賦図卷】【北宋徽宗趙佶瑞鶴図卷】【東晉佚名曹娥誄辭卷】【明仇英赤壁図卷】【北宋蘇軾行書洞庭中山二賦卷】【北宋蘇軾行書陽羨帖卷】【北宋欧陽修行書譜図序稿並詩卷】
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