都江堰-都江堰市-成都市-四川

都江堰放水祭り-2019年中国-四川成都

都江堰(とこうえん、拼音: Dūjiāngyàn)は、四川省成都市都江堰市西部の岷江にある古代の水利・灌漑施設である。
都江堰は、岷江が龍門山脈を抜けて成都平原(四川盆地の西部)に出るところに形成された扇状地の扇頂部に設けられており、岷江の水を左岸(東側)一帯へと分水している。都江堰は現在でも 5,300 km2 に及ぶ範囲の農地の灌漑に活用されており、古代の優れた土木技術を今に残すものである。それまで水不足に苦しんでいた成都平原は水田や桑畑などが急速に広がり水運も便利になり、「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となった。都江堰は以後も改良や補修を加えられ、2300年後の現在もなお機能する古代水利施設である。現地には、李冰の偉業を讃え石像も建てられている。1982年には国務院の指定する全国重点文物保護単位の一つとなり、2000年には青城山とともにユネスコの世界遺産に登録された。
なお2008年5月12日の四川大地震では都江堰の先端の「魚嘴」部分にひび割れが入り、二王廟などの寺院群が倒壊するなどの甚大な被害が出たが、堰の機能には大きな影響はなかった。

建設:
李冰の像
紀元前3世紀、戦国時代の秦の蜀郡郡守李冰(中国語版)(りひょう)が、洪水に悩む人々を救うために紀元前256年から紀元前251年にかけて原形となる堰を築造した。
李冰は、春の雪解け水が山々から殺到することで岷江が増水し、岷江の流れが緩やかになり川幅が広くなる地点で周囲に水があふれ出して毎年洪水になると判断した。ダムを造ることが一つの解決策であったが、岷江は奥地の辺境へ軍を送る重要な水路でもあるため、ダムで完全に堰き止める案は採用せず、川の中に堤防を作り水の一部を本流から分け、その水を玉塁山を切り開いた運河を通して、岷江左岸の乾燥した成都盆地へ流すことを提案した。
李冰は昭襄王から銀十万両を与えられ、数万人を動員して工事に着手した。川の中の堤防は、石を詰めた細長い竹かごを川の中に投入して建設され、「榪槎」というテトラポッド状の木枠で固定された。大規模な工事には4年の歳月が費やされた。
岷江から盆地への運河を山を切り開いて建設することは、火薬や爆薬のない当時の技術では困難であった。玉塁山の岩盤を火で温めた後に水で冷ますことを、岩盤に亀裂が入るまで繰り返しながら少しずつ岩山が崩されていった。8年の工事により 20 m 幅の運河が山の中に建設された。李冰は工事の完成を見ることなく没し、息子の李二郎(顕聖二郎真君のモデルともされる)が工事を引き継ぎ完成させた。

構造:
都江堰の構造。中央の中州(4)が人工の堤防で、先端の「魚嘴」(2)で川を左右に分水する。左(3)が岷江本流、右(5)が灌江であり、「飛沙堰」(6)で土砂を灌江から排出し、「宝瓶口」(8)から灌江の水を右下の農業用水へと導く
北から南へと流れる岷江に中洲を造り、西側(金馬河)を岷江本流とし、東側(灌江)を農業用水として活用する。堰は川を分水する「魚嘴」、土砂を灌江から排出する「飛沙堰」、灌江の水を運河へ導水する「宝瓶口」という3つの堤防状構造物からなる。
このほか川沿いの堤防(金剛堤・人字堤)、付属建築などもある。農地の灌漑・排砂・水運・街への生活用水の供給などを果たす、古代人の知恵を偲ぶことができる構造である。 出典: 都江堰

アクセス
成都から
鉄道 – 成都と青城山を結ぶ高速鉄道「成灌快鉄」が都江堰市中心部を通る。バスもある
鉄道、バスともに都江堰市中心部に到着する。中心部から都江堰入口までは最も近い道で 2.6 km ほどの距離があり、この間を路線バス4路が結んでいる。
その他の都市から – 重慶、広漢、楽山、自貢、綿陽などの都市から都江堰市バスターミナルまでのバスがある。いずれも一日1 – 4便程度。

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