【紫をもととリンゴ】髙島野十郎ー個人蔵

光を孕む静寂──髙島野十郎「紫をもととリンゴ」に見る精神的リアリズムの萌芽
大正9(1920)年、30歳の髙島野十郎が描いた《紫をもととリンゴ》。それは、一見すれば穏やかな静物画にすぎない。しかしこの作品には、画家の生涯を貫く「光」への探求の原点が、密やかに潜んでいる。のちに《蝋燭》連作で知られる孤高の画家・野十郎が、まだ若き日、社会との接点を保ちながらも、すでに独自の世界へと歩み始めていたことを示す証言なのである。
暗い背景にぽつりと置かれたリンゴ。その背後に広がるのは、深く沈むような「紫」の色面である。野十郎はこの作品において、日常的な果実を単なる写実対象としてではなく、精神の奥行きを映す「媒介」として描き出した。彼にとっての絵画とは、現実を再現するための装置ではなく、存在の内奥を照らし出す行為であった。
大正期の美術状況と孤独な出発
大正期の日本美術は、西洋の影響を受けつつも独自の方向を模索する過渡期にあった。黒田清輝が率いた白馬会の流れに代表される外光派、そして岸田劉生の草土社が打ち出した精神的写実主義――これらが新しいリアリズムを模索していた。とりわけ劉生の作品は、対象を凝視することで「内面の真実」を捉えようとする強度を持っていた。
野十郎もまた、その同時代の空気を吸いながら筆をとっていたが、決してその枠に収まることはなかった。《紫をもととリンゴ》は、岸田的な精神写実に呼応しつつも、そこに「色彩そのものの霊性」を導入することで、一歩異なる次元へと踏み出している。紫という、当時の写実主義的傾向から見れば異端ともいえる色を主調とした構成は、野十郎の孤独な実験精神を象徴している。
「紫」という霊的色彩
この作品の核心は、リンゴそのものよりもむしろ背景に広がる「紫」である。紫は古来、宗教的・神秘的な象徴を帯びてきた色であり、東西を問わず「高貴」「霊性」「超越」のイメージを伴う。野十郎がその色を静物画に持ち込んだことは、単なる美的選択ではなく、対象を精神的領域へと昇華させる試みであった。
リンゴは、言うまでもなく日常的な果実であり、同時に象徴的な歴史を背負う存在でもある。聖書における知恵と原罪の果実、ニュートンの発見を導いた果実、そしてセザンヌが晩年まで描き続けた果実。野十郎にとっても、それは「世界の根源」を示す小宇宙であった。紫の背景によって、リンゴは単なる果物を超え、「存在そのものの輝き」を象徴するものへと変わる。
造形的緊張と内なる光
筆致に注目すると、野十郎は果実の丸みや陰影を精密に捉えつつも、どこか震えるようなタッチで画面に呼吸を与えている。果皮に宿る赤や黄のニュアンスは、光が内部から滲み出るように描かれ、まるでリンゴ自体が発光しているかのような印象を与える。ここに、後年の《蝋燭》や《月》へと通じる“内なる光”の感覚がすでに芽生えている。
背景の紫は単調ではなく、濃淡の揺らぎがある。それは静物を包み込む空気そのものであり、光と闇の境界を曖昧にする。紫と赤の補色的関係は画面に強い緊張をもたらし、見る者をただの観察者から、感情的・精神的な参与者へと引き込む。この「構成の必然性」こそ、野十郎が感覚ではなく思想によって絵を組み立てたことの証左である。
精神的リアリズムへの目覚め
《紫をもととリンゴ》は、野十郎が「外界の再現」ではなく「存在の本質」を描こうとした最初の宣言ともいえる。彼のリアリズムは、対象の外形を忠実に写すことではなく、そこに宿る“光の理念”を可視化することだった。
蝋燭の炎が闇を照らすように、リンゴもまた紫の闇の中で自らを照らしている。対象を媒介にして「光」を顕現させる――それが野十郎の芸術の核心であり、やがて晩年の孤高な制作姿勢へとつながっていく。
この静物画には、宗教や哲学を超えた「存在への祈り」が込められている。若き日の野十郎は、まだ言葉にもならぬ感覚として、その光を感じ取っていたのだろう。
孤独な探求と時代への抗い
当時の美術界では、印象派的な色彩の自由や構成の新しさが注目を浴びていた。だが、野十郎はそうした潮流に組みせず、静かな孤独の中で自らの道を歩んだ。《紫をもととリンゴ》はその出発点にあたり、社会的成功や流行への無関心を示すと同時に、純粋な創造への没頭を象徴している。
彼にとって絵を描くとは、世界と和解するための手段ではなく、むしろ世界から距離をとり、そこに潜む“真の光”を見出すための行為であった。リンゴというありふれた題材の中に「存在の証」を見出したことこそ、彼の芸術を唯一無二のものにしたのである。
終章──光の萌芽としての《紫をもととリンゴ》
《紫をもととリンゴ》は、単なる静物画にとどまらない。そこには、のちの《蝋燭》や《月》《星》といった晩年の主題を予感させる“光の萌芽”が確かに息づいている。対象を媒介にして、世界の根底に潜む光を見ようとするまなざし。孤独と祈りのあわいで生まれたこの作品は、髙島野十郎という画家の宿命そのものを映している。
若き画家が、まだ社会との接点を持ちながらも、すでに俗世を離れようとしていたその瞬間――そこにこそ、《紫をもととリンゴ》の真のドラマがある。一本のリンゴを見つめながら、野十郎は人間存在の奥に潜む光を描こうとしていたのである。それは後年の彼が追い求め続けた、「光とは何か」という永遠の問いの、最初の閃きであった。
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