【5人の水浴する人々】セザンヌーオルセー美術館

【5人の水浴する人々】セザンヌーオルセー美術館

展覧会【ノワール×セザンヌ ―モダンを拓いた2人の巨匠】
オランジュリー美術館 オルセー美術館 コレクションより
会場:三菱一号館美術館
会期:2025年5月29日(木)~9月7日(日)


原始の楽園を求めて

セザンヌの作品《5人の水浴する人々》と近代絵画の胎動

「私のうちには、古代人の精神が眠っている」とは、ポール・セザンヌが自らの創作姿勢を語った言葉である。近代絵画の父と称され、20世紀の美術の方向性を決定づけたセザンヌにおいて、その核心に位置するモティーフのひとつが、まさしくこの言葉に集約されている――それが「水浴する人々」、すなわちバティニスト(Baigneurs)の主題である。

1876–77年頃に制作された《5人の水浴する人々》は、オルセー美術館が所蔵するセザンヌ初期の代表作の一つであるが、本作は単に「水浴の情景」を描くことを目的としたものではない。それはむしろ、風景と人物、自然と人間、古典と近代という諸要素を再構成する壮大な構想の序章であり、後の《大水浴図(Les Grandes Baigneuses)》へと至る「水浴シリーズ」の源泉でもある。2025年、東京・三菱一号館美術館にて開催される展覧会「ルノワール×セザンヌ――モダンを拓いた2人の巨匠」において、本作が日本で公開される意義は、まさにセザンヌ芸術の「起源」に立ち会う機会とも言えるだろう。

画面中央に配された5人の人物たちは、いずれも裸体であるにもかかわらず、エロティシズムの気配を欠き、むしろどこか硬質な印象すら与える。均衡を保った構図の中、人物の体躯はどこかぎこちなく、しかし意図的なフォルムの歪みがそこに見て取れる。セザンヌの人物描写にしばしば指摘される「木彫のような」と形容される身体性――その萌芽がここにある。
彼はルーベンスやプッサン、ミケランジェロの人体表現に強い敬意を払っていたが、それを自然主義的な模倣としてではなく、再構築の視点から見直すことに関心を寄せていた。セザンヌにとって、裸体とは単なる生身の再現ではなく、空間の中に置かれるべき形態、すなわち造形的問題そのものだったのである。

《5人の水浴する人々》に描かれた人物は、いずれも動きが少なく、ポーズは静止している。しかも輪郭は曖昧で、肌の質感も荒く、筆致はざらついてさえいる。だが、この「未完成」にも見える描写の中にこそ、セザンヌの眼差しが向けるのは、現実の細部の忠実な記述ではなく、対象の「永続する構造」だったのである。彫像のように硬く、幾何学的に把握された身体は、彼が追い求めた「自然の中にある幾何学」の第一歩でもあった。

本作において、もうひとつ注目すべきは風景との関係性である。背景には、茂みや木立が荒々しく描かれ、地面は茶褐色に沈み、空の青と対比をなしている。人物と風景は明確に分離されず、むしろ渾然一体となった印象すらある。これは印象派のような空気感の表現とは異なる。セザンヌは、自然を一種の「秩序」として捉えようとした画家であり、自然を目の前の光と色の戯れとしてではなく、永続的な構造体として捉えた。

ここでの風景は、単なる舞台背景ではない。むしろ人間の肉体と自然の地形は、同じ造形的問題として等価に扱われている。地面の傾きと人物の姿勢、樹木の曲線と肉体の輪郭――すべては画面の内部で相互に響き合い、絵画空間全体に統一感をもたらす。このような全体構造の中に人間を配置し、自然と調和させようとするセザンヌの試みは、後の風景画や静物画に通じる核心的態度である。

セザンヌが描いた「水浴する人々」の主題において特筆すべき点は、実際に目の前にモデルを置いて制作したものではなく、ほぼ全てが想像に基づくという点である。これは彼の他の肖像画や風景画と決定的に異なる要素であり、まさにこのシリーズにおいてセザンヌが「理念」としての絵画に接近していた証左である。

目の前の風景を写し取るのではなく、記憶や内面に蓄積されたイメージを用いて、構図を組み立て、筆致を重ね、色彩を選び取っていく――このような制作姿勢は、極めて近代的であると同時に、古代芸術への志向性をも併せ持つ。「理想的裸体像」や「理想的風景」の再構築を目指した点において、セザンヌは古典主義の精神を継承しながら、それをまったく新しい形式で蘇らせたのである。

《5人の水浴する人々》が描かれた1876–77年という年代は、印象派の運動が華やかに展開されていた時期にあたる。モネやルノワールが戸外制作において光と色彩の相互作用を追求し、目の前の現実を即興的に描写する中、セザンヌは同じく印象派のグループに名を連ねながらも、明らかに異なる方向を志向していた。

この作品に見られる筆致は、決して軽やかではない。むしろ粘りつくようなタッチで画面を覆い尽くし、分厚いマチエールが肉体と空間の「重み」を強調する。色彩も、印象派的な明るさとは一線を画し、深みのある茶褐色や濁った青など、沈静的なトーンが支配している。セザンヌはこの時期すでに、印象派の「目に見える世界」を超えて、「目に見えない構造」への関心を深めつつあったのである。

この作品は、単なる技法上の模索ではなく、絵画とは何か、人間とは何か、自然とは何か――という根本的な問いに対する、ひとつの回答であった。ここに見られる静けさ、厳粛さ、そして不安定な均衡感は、セザンヌが近代絵画において提示した「もう一つのモダン」の姿に他ならない。

この作品が後世に与えた影響は、計り知れない。ピカソやブラックはセザンヌからキュビスムの道を見出し、マティスやドランらフォーヴィスムの画家たちは、その色彩と構図に新たな解釈を施した。《5人の水浴する人々》における人物と風景の統合的構成は、やがてセザンヌ晩年の代表作《大水浴図》(1898–1905)において頂点を迎えるが、その原型がすでにこの時期に成立していたことは、驚くべき事実である。

また、現代的視点から見ると、この作品にはジェンダーや身体、自然観などに対する再考を促す要素が数多く含まれている。裸体は性的な対象ではなく、空間における構成要素であり、自然との等価な存在として描かれている。この脱中心的視点は、21世紀の我々にとっても重要な示唆を与える。

《5人の水浴する人々》は、過渡期の作品である。だが、その過渡性こそが、セザンヌの絵画におけるダイナミズムを生み出している。この作品には、「未完成」のように見えるあらゆる要素が、むしろ未来に向けた「始まり」として作用している。そしてそれは、印象派の終焉でもなければ、古典主義の模倣でもない。「モダン」を再定義する、新たな原初的言語の萌芽なのである。

2025年の三菱一号館美術館において、本作がルノワールの洗練された筆致と並び展示されるという事実は、フランス近代絵画における二つの対極――感覚の詩学と構造の哲学――が、いかにして同時代を共有し、互いを照射し合っていたかを、我々に如実に伝えてくれることだろう。

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